第24話「死の宣告」
――空気が、変わった。狂戦士が大剣を正面へ構えた、その瞬間。
校舎全体を満たしていた静寂が、まるで形を持ったかのように重く沈み込む。
肌を刺すような冷気ではない。熱でもない。それは、生き物としての本能が拒絶する“死”そのものだった。
レッドは無意識に息を呑む。心臓が大きく脈打ち、全身を巡る血液が一瞬だけ凍りついたような錯覚に陥る。神剣を握る手が震えた。恐怖からではない。
目の前の敵が、今まさに何か決定的な力を解放しようとしていることを、本能が悟ってしまったからだ。
「レッド……」
隣でレイラが小さく名前を呼ぶ。その声にも、わずかな震えが混じっていた。彼女も感じ取っている。
今までの狂戦士とは違う。これまで交わしてきた剣戟も、圧倒的な膂力も、すべてが前座に過ぎなかったのだと。
狂戦士はゆっくりと2人を見渡す。兜の奥で灯る深紅の双眸は、獲物を見定める猛獣のようでありながら、どこか静かな慈悲すら宿していた。
「……見事であった。我が刃をここまで受け続ける者とは⋯⋯」
低く響く声が、廊下を満たす。その言葉は嘘ではない。心からの賞賛。だからこそ、その続きが重かった。クロウは静かに目を閉じる。
「故に。貴様らには、最大の敬意をもって終焉を授けよう。」
その瞬間だった。大剣の刀身を、黒い瘴気がゆっくりと這い始める。いや、瘴気ではない。それは闇だった。夜よりもなお深く、光さえ呑み込む漆黒。
刃の周囲に渦巻くそれは、空間そのものを侵食していくようだった。床へ影が伸び、壁が軋む。割れた窓ガラスが、触れてもいないのに細かく震え始めた。
空気が重い。肺へ空気を取り込もうとしても、胸が押し潰されるように苦しい。レッドは思わず一歩後ずさる。
(なんだ……この圧力)
さっきまでとは比べものにならない。まるで巨大な岩山を目の前にしたような圧迫感。命そのものを拒絶されているような感覚。
隣を見ると、レイラも同じだった。神斧を握る手が小刻みに震え、額には冷たい汗が浮かんでいる。
「レイラ……」
「う、うん……」
返事は返ってきた。だが、その声は普段の彼女からは想像もできないほどか細い。それでも彼女は逃げなかった。
神斧を構え直し、真っ直ぐクロウを見据えている。その姿を見て、レッドは胸の奥で何かが静かに燃え上がるのを感じた。
(そうだ。俺だけじゃない。レイラだって、怖いはずなんだ)
それでも立っている。守りたいものがあるから。なら、自分も前を向かなければならない。
すると、ミズリーが小さく息を呑む。
「……まずい」
普段は穏やかな彼女の声が、珍しく切迫していた。フレイも険しい表情のままクロウを見据える。
「嫌な予感しかしないな」
「フレイ……あれって……」
「ああ。間違いない」
短く頷く。その一言だけで、ミズリーの表情がさらに曇る。
「まさか、こんな場所で見ることになるとはな……」
フレイは小さく舌打ちした。レッドは2人の様子へ気づき、叫ぶ。
「な、何かあるのか?!」
フレイは視線を逸らさないまま答えた。
「……『BURST』だ」
フレイの声は低く重い。その言葉に、レッドは眉をひそめる。
「BURST……?」
「エレメンターのスキルとは根本から異なる、極限まで力を高めた者だけが扱える究極の技――一撃必殺。いや、それ以上だ。まともに受ければ、生き残る保証はないだろう」
レイラの顔から血の気が引く。
「そんな……」
ミズリーも唇を噛み締めた。
「今の2人じゃ、正面から受け止めるなんて無理よ……!」
その言葉が、レッドの胸へ突き刺さる。無理、勝てない、受ければ終わる。そんな言葉ばかりが頭をよぎる。
だが、逃げるという選択肢だけは、最初から存在しなかった。
狂戦士はゆっくりと大剣を天へ掲げる。漆黒の闇が渦を巻き、刀身へ吸い寄せられていく。校舎全体が唸る。床に刻まれた亀裂がさらに広がり、天井から細かな瓦礫がぱらぱらと降り注いだ。
「……参る」
静かな宣告。それだけで空気が震える。しかし、レッドは神剣を強く握り締めた。
(まだだ。まだ終わってない。)
炎のが呼応し、刀身へ赤い炎が宿る。レイラもまた、神斧へ冷気を纏わせた。2人は互いに頷き合う。たとえ相手がどれほど強大でも。ここで倒れれば、この学校のみんなを守れない。
だから――最後まで抗う。その覚悟だけは、決して揺るがなかった。狂戦士は静かに口を開く。
「――『BURST』発動」
その瞬間、黒い闇が大剣から爆発するように溢れ出した。
狂戦士を中心として噴き上がった漆黒の奔流は、まるで生き物のようにうねりながら校舎全体を包み込んでいく。
照明の光は一瞬で呑み込まれ、廊下は昼間とは思えないほど深い闇に染まった。息苦しい。肺に空気が入らない。耳鳴りがする。
その場に立っているだけで、生気を奪われていくような感覚だった。レッドは神剣を強く握り締める。手のひらには汗が滲み、鼓動は今にも胸を突き破りそうなほど速く打っている。
それでも、視線だけは決して逸らさなかった。目の前の敵から。そして、守るべき仲間から。狂戦士は静かに目を閉じる。
まるで長年連れ添った相棒へ語りかけるように、大剣へそっと手を添えた。
「……永き眠りに就きし闇よ」
低く、厳かな声が響く。その声は呪詛ではない。祈りにも似た響きを帯びていた。
「我が刃に宿りて、命の終焉を示せ」
闇がさらに濃くなる。床を這う影が1本、また1本と伸び、レッドたちの足元へ絡みついた。冷たい。まるで氷水へ足を沈めたような感覚が全身を駆け抜ける。
レイラは思わず息を呑んだ。
「動け……ない……」
足が重い。いや、重いのではない。恐怖が体を縛りつけているのだ。頭では逃げなければと理解している。それなのに、1歩も踏み出せない。
狂戦士はゆっくりと大剣を構えた。深紅の双眸が2人を真っ直ぐ見据える。
「BURST――」
その声が響いた瞬間、空気が震えた。
「――【死斬滅告】 」
そして、大剣が振り下ろされた。ただ、それだけだった。派手な斬撃はない。巨大な衝撃波もない。大剣は静かに空を裂いただけ。
それなのに、レッドの本能は絶叫していた。やがて斬撃はレイラの方向へと進んでいく。
(避けろ――!!)
全身の細胞が危険を叫ぶ。しかし、体は動かない。時間が止まったような錯覚。
視界の端で、レイラが凍り付いたように立ち尽くしているのが見えた。彼女も動けない。恐怖に飲まれている。
その瞬間だった。レッドの胸に、1つの光景が浮かぶ。
初めてレイラと出会った日。常に明るく笑っていた彼女。戦いの中で何度も見せてくれた笑顔。恐怖を乗り越え、「もう後悔はしない」と叫んだあの瞳。
――守りたい。その想いだけが、体を突き動かした。
「レイラッ!!」
叫びながら床を蹴る。恐怖を振り払うように、1歩。もう一歩。そして、レイラの前へ飛び込んだ。
「レッド……!?」
驚きに目を見開くレイラ。次の瞬間。
ズァァァッ――。
黒い斬撃が、レッドの身体を音もなく通り抜けた。静寂。あまりにも静かな一撃だった。
激しい衝撃もない。肉を裂く音もない。ただ、自分という存在の何かが、刃に触れたような奇妙な感覚だけが残る。
「……え?」
レッドは思わず自分の身体を見下ろえた。肌には傷1つなく、血も流れていない。
どこも斬られていないはずなのに――。
「……なん、だ……?」
胸の奥が急速に冷えていく。全身から力が抜けていくような感覚。立っていることさえ難しいほどの虚脱感が、一気に身体を支配した。
「……ぐっ……!」
膝が折れ、その場へ崩れ落ちそうになる。神剣を杖代わりにして、辛うじて倒れるのを堪える。それでも、その瞳から生気は少しずつ失われていくようだった。
「レッド!! しっかりして!!」
レイラは慌てて駆け寄り、その身体を支える。震える手でレッドの肩や胸元を確かめる。しかし――
「……え?」
傷がない。血も、一滴も流れていない。
「そんな……」
確かに斬られた。この目で見た。なのに、どこにも斬られた痕跡が存在しない。
「レッド! どこか痛いの!? 返事して!」
レイラはただレッドに叫びかける。だが、レッドは苦しそうに息をしながら、小さく笑う。
「そんな……顔、するなよ……」
「でも……!」
「……守れた」
その一言だけだった。レイラを庇えた。それだけで十分だと語るように。
レイラは首を横へ振る。そして、涙が次々と頬を伝った。
「こんなの……嫌だよ……」
ミズリーもすぐそばへ駆け寄る。だが、彼女は表情を曇らせた。
「傷が……ない? そんなはずは……確かに、斬られたのに……」
彼女は信じられないというようにレッドの全身を見渡す。フレイも静かに眉をひそめる。
「……妙だ」
普段の攻撃ではない。『BURST』だからこそ起きた、常識では説明できない現象。
その場にいる誰も、その理由を理解できなかった。狂戦士は静かにレッドを見つめる。そして、小さく頷いた。
「……見事。己が身を盾とし、仲間を守ったか」
その声に嘲笑はない。純粋な敬意だけがあった。深紅の瞳が静かに細められる。しかし、クロウは再び大剣を構える。
「その覚悟……確かに受け取った。されど、戦場に情けは不要」
冷酷な宣告。再び殺気が膨れ上がる。レイラは涙を拭うことも忘れ、神斧を握り締めた。恐怖は消えない。それでも、もう、立ち止まることはできない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一方、その頃。校舎の暗い廊下を、ひとりの男が悠然と歩いていた。黒い外套を揺らし、まるで散歩でも楽しむかのような軽い足取り。
――エリックは、口元へ笑みを浮かべる。
「おや……」
ふと足を止め、天井を見上げた。その瞳は、まるで屋上で起きている戦いを見通しているかのようだった。
「あーあ……ついに使っちゃったか」
肩をすくめ、くすりと笑う。どこか残念そうに、けれど楽しげに。
「まぁ、邪魔者が減るなら、それはそれで悪くない」
外套を翻し、再び歩き出す。靴音だけが静かな校舎へ響く。すると、エリックは細く目を細めた。
「でも⋯⋯少しくらい、この目で見てみたかったな」
唇がゆっくりと吊り上がる。
「――あいつの『BURST技』を。」
その笑みだけを闇へ残し、男の姿は静かに溶けるように消えていった。ただ、残された校舎には、再び重苦しい静寂だけが広がっていた。




