第21話「影からの来訪者」
燃え盛っていた炎が、ゆらりと揺らめく。レッドが放った『炎神乱舞』によって生み出された炎の檻は、狂戦士を完全に包囲していた。
逃げ場はない。炎は幾重もの壁となり、漆黒の戦士を灼き続ける。鎧は赤熱し、黒い瘴気は炎に焼かれて霧散していく。
確かに効いていた。竜牙兵とは比べ物にならない耐久力を誇る狂戦士でさえ、その場から動けずにいる。
レッドは荒く息をつきながら神剣を構え直した。腕は重い。肩も痛む。全身から汗が流れ落ちる。それでも、瞳だけは決して揺らいでいなかった。
「これで……終わりだ」
自分に言い聞かせるように呟く。あと一撃。あと一歩踏み込めば、この異変を終わらせられる。
そう信じて疑わなかった。レイラも隣で胸を撫で下ろしていた。
「すごい……。あんな敵を押し込めるなんて……」
先ほどまで圧倒的な威圧感を放っていた狂戦士が、今は炎の中で苦しそうに身を震わせている。希望が見えた。
――そう思った、その瞬間だった。
「あーあ」
軽い声が響く。戦場にはあまりにも場違いな、気の抜けるような声音。
「ダメじゃないか。こんなところで終わっちゃ」
炎の向こう側。揺らめく赤い光の奥から、一つの人影がゆっくりと姿を現した。
コツ――。
コツ――。
靴音だけが静まり返った廊下へ響く。まるで散歩でもしているかのような、ゆったりとした歩幅。焦りも警戒もない。その余裕が、かえって異様だった。
やがて炎を抜け、その人物の姿がはっきりと見える。黒い外套。黒いシャツ。黒い手袋。黒いブーツ。全身を漆黒で統一したような男だった。
年齢は20代前半ほどだろうか。端正な顔立ちに穏やかな笑みを浮かべている。どこか知的な雰囲気すら感じさせる。
だが、その笑みの奥にあるものを見た瞬間――レッドの背筋へ冷たい悪寒が走った。
(……なんだ、この人)
敵意は感じない。殺気もない。怒りも憎しみもない。それなのに、本能だけが激しく警鐘を鳴らしていた。
――逃げろ。
――戦うな。
――こいつだけは違う。
その感覚はレイラも同じだった。思わず一歩後ずさる。呼吸が浅くなる。今まで感じたことのない種類の恐怖。狂戦士のような威圧ではない。もっと静かで、もっと底知れない恐ろしさ。
まるで笑顔のまま、人を殺せる人間。そんな印象だった。そして、フレイが低く呟く。
「……なるほど。ようやく姿を現したか」
ミズリーも険しい表情で青年を見つめる。フレイは目を細めた。
「あれが恐らく、この異変の本当の元凶――そして狂戦士を従える者か」
そして男はレッドたちを見回すと、小さく肩をすくめた。すると、困ったように笑う。
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか。俺、別に君たちへ喧嘩を売りに来たわけじゃないんだけど」
その一言に、レッドの眉がぴくりと動く。
「……お前、誰なんだ」
そして神剣を構える。青年は「ああ」と納得したように頷いた。
「そうか。自己紹介がまだだったね」
黒い外套をふわりと翻す。まるで舞台へ上がる役者のように一礼した後、口角がゆっくりと吊り上がる。
「俺の名前は――『エリック・ロア』 」
その名だけが、静かな廊下へ響いた。
「よろしく、新しいエレメンターさん」
そしてレッドはその名前を繰り返す。
「エリック……」
「そうそう。覚えてくれると嬉しいな」
エリックは人懐っこく笑う。その笑顔は穏やかだった。だが、誰1人として安心することはできない。
笑っているのに、まるで感情が見えない。そこが恐ろしかった。エリックは炎の中で膝をつくクロウへ視線を向ける。
「ほんとは、前へ出るつもりはなかったんだけどね」
そしてため息をつく。
「こうでもしないと、あいつが本当にやられちゃいそうだから」
炎は今なお燃え続けている。普通なら近づくことすらできない熱量。
しかしエリックは気にした様子もなく、その炎へ歩み寄った。
「さて」
右手を軽く掲げる。その瞬間。何もない空間が黒く歪んだ。闇が渦を巻き、1冊の本がゆっくりと姿を現す。
分厚い装丁。漆黒の表紙。銀色の紋様が複雑に刻まれた魔導書だった。その本が開くと同時に、周囲の空気が静かに震える。それを見たレイラは目を丸くする。
「本……?」
そしてエリックはページをめくりながら微笑む。すると静かに詠唱を始めた。
「詠唱。消えゆく火を鎮め、朽ちし器に還せ――」
魔導書の文字が青白く輝く。すると無数の魔法陣のようなものがが床一面へ展開された。幾何学模様が幾重にも重なり、黒い幻想的な光景を作り出す。
レッドたちは息を呑むことしかできない。これまで見た――自分たちのスキルとは全く違う。もっと体系化された、洗練された力。
魔法、そう呼ぶべきに相応しい力だった。やがてエリックは最後の一節を静かに告げる。
「――【聖命還流】 」
次の瞬間、炎が音もなく消えた。まるで最初から存在しなかったかのように。熱も、光も、焦げた匂いすら。すべてが青白い光へ飲み込まれていく。
そして、クロウの全身を包んだ光が、傷ついた鎧をゆっくりと修復していく。焼け焦げた装甲が元へ戻り、砕けた部分が再生する。ひび割れは跡形もなく消え去った。
やがて光が消える頃には――そこには、戦闘開始時と寸分違わぬ姿の狂戦士が立っていた。レッドの瞳が大きく見開かれる。
「……そんな、馬鹿な」
あれほどの一撃。全力を注いだ攻撃が。たった1つの詠唱で、なかったことにされた。
狂戦士はゆっくりと膝をつき、頭を垂れる。
「……恐れ入る。我が主よ」
エリックは面倒そうに肩をすくめた。
「分かったなら、さっさと終わらせてよ。任務外とはいえ、俺にもまだ片付けなきゃいけない仕事が残ってるんだから」
そして、彼は魔導書を閉じる。その何気ない一言に、レッドの胸の奥で、嫌な予感が静かに膨れ始めていた――。
静寂が廊下を満たす。つい先ほどまで荒れ狂っていた紅蓮の炎は跡形もなく消え去り、焼け焦げた床と、立ち上る微かな熱気だけが戦いの激しさを物語っている。
その中心に立つのは――獄闇の狂戦士。鎧には傷一つない。まるで、先ほどまで炎に呑まれていたこと自体が幻だったかのように。
レッドは神剣を握る手へゆっくりと力を込めた。掌には汗が滲み、柄が僅かに滑る。肩で息をしながらも、視線だけは決して逸らさない。
(……あり得ない)
胸の奥で何度も同じ言葉が反響する。あれほどの一撃だった。今まで放ったどの技よりも強く、どの技よりも想いを込めた一撃だった。
狂戦士を包み込んだ炎は確かな手応えを返してきた。だからこそ確信していた。勝てる、と。異変を終わらせられる、と。
それなのに――その努力は、たった1つの詠唱によって、まるで紙切れでも払うかのように消し去られてしまった。
理解が追いつかない。いや、理解したくなかった。レイラもまた、神斧を握る手を強く握り締めていた。唇を小さく噛む。エリックという人物から感じるのは、狂戦士とはまるで違う恐ろしさだった。
狂戦士は強い。ただ純粋に圧倒的な戦士だ。だが、この男は違う。戦う以前に、何を考えているのかが分からない。その底知れなさが、不気味だった。
そんな重苦しい空気など意にも介さず、エリックは小さく息を吐く。
「……ふぅ。これで一安心かな」
まるで少し面倒な仕事を終えた会社員のような気の抜けた仕草だった。柔らかな笑みを浮かべながら、彼は狂戦士へ目を向ける。
「――動けるね?」
すると狂戦士はゆっくりと片膝をつき、深く頭を垂れた。
「問題……ありません」
低く響くその声には、絶対的な忠誠だけが宿っている。
「それならよかった。壊れたら困るからね」
エリックは満足そうに頷いた。その一言に、レッドの眉がぴくりと動く。
“壊れる”――まるで道具のことを話しているような言い方だった。命ある存在ではなく、交換可能な兵器として扱う口調。その冷淡さに、胸の奥がざわりと波立つ。そしてエリックはゆっくりとレッドたちへ向き直る。
相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま。その笑顔には敵意も殺気もない。だが、その笑みさがかえって恐ろしい。そして、エリックは軽く肩を鳴らしながら言った。
「さて、と。知りたそうな顔をしているね」
「……何の話だ」
レッドは神剣を下ろさない。 だが、エリックは楽しそうに笑った。
「 『目的は俺たちじゃないのか』って顔してる。そう、正解」
この状況下で、あまりにもあっさりと告げられたその目的とやらに、一同の空気が凍りつく。
「君たちは、俺の今回の目的じゃない」
「……何だと?」
「正確に言えば、君たちは“おまけ”かな」
するとエリックは窓の外へ目を向ける。黒く染まった空。異変に覆われた学校。静まり返った校舎。
「この学校って、結構便利なんだよ」
まるで施設の感想でも話すような軽い口調。
「生徒が多いし、逃げ場が少ない、閉鎖空間。そして外から干渉されにくい」
指を一本ずつ折りながら数えていく。
「条件としては満点に近い」
レイラは思わず一歩前へ出た。
「……条件?」
「そう。今回の任務にぴったりだった」
エリックは笑みを崩さない。――任務。その言葉がやけに重く響く。レッドは低く問い返した。
「その任務って、何なんだ」
エリックは一瞬だけ視線を宙へ泳がせる。少し考えるような素振り。やがて、「まぁいいか」と呟き、小さく肩をすくめた。
「教えても困らないか」
そして、まるで今日の天気でも話すような調子で告げる。
「今回の俺の任務は――魂の回収」
その一言だけで、空気が完全に止まった。 レッドが思わず聞き返す。
「……魂?」
「うん」
エリックは当然だと言わんばかりに頷いた。
「この学校にいる人間全員の魂を集めること」
「なっ……!」
レイラの肩がびくりと震える。ミズリーも表情を曇らせた。フレイだけが黙ったままエリックを見据えている。
「もちろん、生きたままじゃ効率が悪いけどね。だから少し眠ってもらったんだ」
さらりと言った。その言葉には一片の罪悪感もない。まるで資材を集める話でもしているかのようだった。
「……お前」
そしてレッドの喉が震える。それは低い声、怒りを押し殺した声だった。
「人の命を……何だと思ってる」
エリックは少しだけ目を丸くした。その反応は、あまりにも自然だった。まるで、「そんなことを聞くの?」と言いたげな表情。
「命?」
小さく首を傾げる。その仕草だけを見れば、人当たりの良い人物にしか見えない。
だが、その瞳だけはどこまでも冷え切っていた。そこには人への温もりなど欠片もない。あるのは、物を眺めるような無機質な光だけ。
「⋯⋯まぁ、要は君たちは命として見てる」
静かな声が廊下へ溶けていく。
「でも、俺たちは違う」
口元の笑みは変わらない。そして、彼はそのまま続けた。
「資源だよ」
その一言が、レッドの胸へ深く突き刺さった。冗談ではない。脅しでもない。この男は、本気でそう考えている。
命も、人生も、未来も。すべてを“資源”という2文字で片付けてしまえる人間なのだ。
レッドの中で、何かが音を立てて切れた。神剣を握る手へ、力がこもる。炎のエレメントが呼応するように脈打ち始める。静かに。しかし確実に。
怒りの炎が、その胸の奥で燃え上がり始めていた――。




