第20話「炎神乱舞」
霧が晴れ、冷たい水の粒子が空中へ溶けるように消えていく。先ほどまでレイラが繰り出していた【水霧瞬閃】の残滓だ。
だが、その霧はもう残っていない。狂戦士は、ただ一歩踏み出しただけで周囲の霧を吹き飛ばしてしまった。
異常だった。あまりにも異常だった。ただその場に存在しただけ。それだけで霧が完全に払われてしまった。まるで周囲の空間そのものを支配しているようだった。
レッドは神剣を握り直す。掌には汗が滲んでいる。戦闘が始まってからまだ数分も経っていない。それなのに全身の神経が張り詰めていた。
今まで戦ってきた竜牙兵とは根本的に違う。そんなことは誰の目にも明らかだった。
「⋯⋯レッド」
レイラが小さく呼ぶ。その声には警戒が滲んでいた。
「うん」
そしてレッドは短く返す。余計な言葉はいらない。2人とも分かっていた。少しでも油断すれば終わる――それほどの敵だ。
狂戦士は動かない。漆黒の鎧を纏った巨体が、廊下の奥で静かに立っている。ただそれけなのに、空気は重い。呼吸をするたび肺が圧迫されるような感覚があった。
レイラは小さく唇を噛む。怖い。竜牙兵の群れを倒した時とは比べ物にならない。数の脅威ではなく、質の脅威。存在そのものが恐怖を放っている。
そんな敵だった。だが、レイラは神斧を握る。――恐怖を超える。つい先ほど、自分自身へ誓ったばかりだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
守りたいものがある。守れなかった過去がある。だから――。
「負けない」
そうして、小さく呟く。その声はぎこちなく震えていた。だが、瞳は前を向いていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一方、フレイとミズリーは少し離れた位置から戦況を見ていた。その中で、神獣である彼らだからこそ分かることがある。
「……妙だな」
フレイが呟く。ミズリーも同じことを感じていた。
「ええ」
短く頷く。狂戦士から放たれる気配。それは確かに強大だ。だが、それ以上に気になることがある。 フレイは目を細めた。
「違和感がある。あれは怪物という枠を超えているように感じる」
「私もそう思う」
自然に生まれたものではない、ということは分かっていることだが、もはや目の前にいるのは生み出された怪物――というより、兵器。そんな印象を受ける。
異変の集大成。この存在は完成されすぎている。何かの目的のためだけに作られたように。
フレイは視線を巡らせた。廊下。窓。天井。そして闇の奥。――誰かが見ている気がした。だが姿はない。気配も曖昧だ。しかし、それが余計に不気味だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「⋯⋯レッド」
レイラが構えながら聞く。
「次⋯⋯どうする?」
「……」
レッドは答えない。いや、答えられなかった。考えている、必死に。
どうすれば勝てるのか。どうすれば突破できるのか。攻撃は弾かれた。威圧感は尋常じゃない。防御力も高そうだ。
それでも勝つ方法を探さなければならない。レッドは狂戦士を見つめる。観察する。呼吸。姿勢。重心。武器。――全てを見る。
狂戦士はほとんど動いていない。必要最低限しか。それは自信か、それとも別の理由か。レッドの頭の中で可能性が巡る。だが、正しい答えはわからない。
「やるしか……ない」
小さく呟き、レッドはそれでも前へ一歩踏み出した。
「⋯⋯来るか」
すると狂戦士が低く呟く。初めてだった。敵の側から意思が感じられたのは。それだけで空気が張り詰める。
レッドは神剣を構えた。炎のエレメントが集まる。赤い光。熱量。そして胸の奥で何かが燃え始める。それは怒りではない。憎しみでもない。守りたいという想い。終わらせたいという願い。仲間を助けたいという意思。それら全てが炎へと変わっていく。
「俺は……」
剣を握る。強く、迷いを断ち切るように。
「ここで負けるわけにはいかない」
炎が揺らぎ、神剣が共鳴する。そして赤い光が周囲を照らした。
狂戦士が剣を構え、重い音が響く。それだけで床に亀裂が走った。それを見てレイラが息は呑む。 圧倒的な力。圧倒的な破壊力。
まともに受ければ終わる。そう確信できるほどだった。だが、レッドは退かない。一歩、また一歩。前へ進む。恐怖を押し殺す。足を止めない。炎が強くなり、熱が増していく。そして、空気が揺らぐ。
するとミズリーはその様子を見て目を見開いた。
「……これは」
フレイも気付く。その気配、その炎。どこかで見たことがある。
いや、知っている。忘れるはずがない。それは遠い昔、ある人物が纏っていた力と酷似していた。だからこそ、彼らは驚いていた。
「⋯⋯一体、なぜ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
レッドはゆっくりと息を吸った。胸の奥。燃える炎。それが脈打っている。心臓と同じように。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動に合わせて力が膨れ上がる。神剣が光り、炎が集まる。今まで感じたことのない感覚だった。熱い。だが苦しくない。むしろ心地良い。
身体中を巡る炎が、自分自身の意思と1つになっていく。そして――レッドは静かに目を開いた。
「――行くぞ」
その瞳には確かな覚悟が宿っていた。静かな一言だった。だが、その言葉が放たれた瞬間。レッドの周囲の空気が変わった。
熱を帯び、揺らぐ。まるで校舎の廊下そのものが炎に包まれ始めたかのようだった。レイラは思わず息を呑む。ミズリーも目を見開いた。フレイは黙ったままレッドを見つめている。
誰もが感じていた。今、レッドの中で何かが起ころうとしている。それは単なるスキルの発動ではない。もっと根源的な何か。エレメントそのものとの共鳴――そんな感覚だった。
レッドは神剣を握る。胸の奥で燃える炎へ意識を向ける。この炎は、守りたい、助けたい、救いたい。その想いが形になったものだった。
倒れている生徒たち。異変に巻き込まれた人々。そして仲間たち。守りたいものがある。だから負けられない。ただそれだけだった。
狂戦士はレッドを見つめている。赤黒い光が兜の奥で揺らめいていた。先ほどまでと変わらない。圧倒的な威圧感。圧倒的な存在感。
だが、今のレッドはその圧力に飲まれていなかった。恐怖が消えたわけではない。怖い。それでも進める。心が折れていないから。
レッドはゆっくりと神剣を構え、そして、静かに口を開いた。
「――『炎神乱舞』 」
その瞬間。轟音が響き、炎が噴き上がる。赤。橙。金。無数の炎が渦を巻きながらレッドを中心に広がった。
その光景はまるで巨大な太陽の誕生だった。暗闇に支配されていた5階が一気に照らされる。壁が赤く染まり、窓が輝く。床へ揺らめく炎の光が映る。
レイラは思わず声を漏らした。
「すごい……」
自然とそう言っていた。綺麗だった。ただ強いだけじゃない。
――美しい。それは、命の輝きそのものだった。
炎はさらに膨れ上がる。レッドの足元から天井近くまで伸びる巨大な火柱。その中心で、レッドは静かに目を閉じていた。
そして――彼は神剣を振り上げる。
「壱ノ乱――」
炎が応え、轟々と唸る。まるで生き物のように。やがて、レッドは叫んだ。
「 【命燃やす焔天の舞】 」
刹那、炎が解き放たれた。世界が赤く染まる。燃え盛る炎が廊下を駆け抜ける。
それは破壊の炎ではなかった。怒りの炎でもなかった。優しい炎だった。温かい炎だった。けれど、圧倒的だった。狂戦士を中心に炎が渦巻く。
逃げ場はない。炎が壁となり天井となり檻となる。完全な包囲。完全な封鎖。そして狂戦士は初めて反応を示した。
「……ぐ……」
低いうめき声。その瞬間、レッドは確信した。効いている。今まで傷1つ付かなかった敵へ。確かに届いている。
その中で、狂戦士は剣を振るう。そして、闇が迸る。だが、炎は消えない。むしろ勢いを増す。まるでレッドの意志そのものが燃えているかのように。
「……う……」
狂戦士が苦しむ。闇が揺らぎ、鎧の隙間から黒い粒子が零れ落ちる。レイラは目を見開いた。
「押してる……!」
「ええ」
ミズリーも驚いていた。ここまでとは思っていなかった。この技は異常だ。発動した瞬間から空気が変わった。まるで格が違う。
レッド自身も理解していない領域の力。それが今、姿を現している。
その様子を見ながら、フレイは静かに目を細めた。
「……やはり、“同じ”だな」
ぽつりとそう呟いた。そして、ミズリーが振り向く。
「やっぱり⋯⋯?」
「ああ。間違いない」
フレイは炎を見つめたまま答えた。その声には珍しく動揺が混じっていた。
神獣である彼が驚くほど。それほど“異常な出来事”だった。
「でも……なんで?」
ミズリーは信じられなかった。偶然なのか、必然なのか、理解できない。
フレイは少しだけ沈黙した。そして――
「⋯⋯分からない」
そう答える。本当に分からなかった。だが、1つだけ確かなことがある。
レッドの炎は――かつて存在した〝誰か〟と同じ輝きを宿していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
炎の檻の中。狂戦士は膝をつき始めていた。鎧が焼け、闇が剥がれる。赤黒い光が弱まっていく。
するとレッドはゆっくりと前へ進んだ。一歩、また一歩。呼吸は荒く、先程の消耗も激しい。それでも歩く。ここで終わらせるために。
レッドは神剣を握り直す。最後の一撃――これで決着だ。そう確信していた。
そして狂戦士の前へ辿り着く。炎が揺れる中、レッドは剣を振り上げた。これで終わりだ、そう思った。だが、その瞬間だった。
「あーあ」
声が響く。軽い声。場違いなほど気楽な声。全員の動きが止まった。
「――ダメじゃないか」
その声は笑っていた。楽しんでいた。まるで今の戦いすら余興だと言わんばかりに。
「こんなところで終わっちゃ」
レッドが振り向く。炎の向こう側、闇の奥。そこから1人の男が歩いてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
足音が響く。ゆっくり、わざと見せつけるように。黒い外套。不敵な笑み。細められた瞳。
その男はまるで散歩でもしているかのような気楽さで現れた。だが、男が現れた瞬間、空気が変わる。ミズリーの表情が凍り、フレイの目が鋭くなる。
本能が理解していた。危険だと。目の前の男こそ、今までの敵とは比べ物にならない存在だと。
すると男は炎を見渡した後、狂戦士を見る。そしてレッドを見る。興味深そうに。まるで珍しい玩具を見つけた子供のように。
「おっと、こんにちは」
男は笑いながらそう言った。誰も答えない。答えられない。その男だけが、ただ平然としていた。
「はじめましてだね」
そして、ゆっくりと口角を吊り上げる。その笑みは不気味だった。優しそうにも見える。だがその奥には、底知れない悪意が潜んでいた。
男はレッドへ視線を向ける。真っ直ぐ。逃がさないように。獲物を見定めるように。やがて、楽しそうに告げた。
「――“新しいエレメンター”さん」
その言葉を聞いた瞬間、レッドの背筋を冷たいものが走った。
なぜ知っている。なぜ自分たちを見ていたような口ぶりなのか。なぜこんなにも余裕なのか。そして、この男は何者なのか。次々と疑問が浮かぶ。
だが、男はそれを答える様子もない。ただ笑っている。まるでこれから始まる何かを心から楽しみにしているように。
――異変の黒幕。その可能性が脳裏をよぎる。
しかし、レッドたちはまだ知らない。
今、ようやく本当の敵と出会ったのだということを――。




