第18話「闇を見上げる者たち」
崩れた壁の隙間から、冷たい風が吹き込んでいた。
異変が始まってからというもの、校舎内の空気はずっと重いままだ。竜牙兵たちを倒した今も、その不快感は消えていない。
むしろ、どこかで何かが息を潜めているような感覚だけが強くなっていた。
レッドたちは、破壊された廊下の一角で状況を整理していた。レイラは壁にもたれながら小さく息を吐く。戦闘の疲労はまだ残っていた。先ほどまで大量の竜牙兵を相手にしていたのだ。当然と言えば当然だった。
「……大丈夫か?」
レッドが声をかける。レイラは少しだけ驚いたように顔を上げた。
「え?」
「顔色」
「そんな悪い?」
「まあ少し」
レッドは正直に伝えた。するとレイラはむっと頬を膨らませる。
「失礼な!」
「いや事実だよ」
「元気だもん」
「3秒前まで壁にもたれてた奴が言うな」
「うぐっ」
痛いところを突かれた。確かに疲れている。認めたくはないが疲れている。
だがそれ以上に、胸の奥には別の感情があった。達成感。そして少しだけ自信。恐怖を乗り越えられたという実感。
それが今も心の中に残っていた。そんなレイラの様子を見て、ミズリーは小さく微笑む。
「でも、本当に頑張ったわね」
「……へへ」
褒められると照れる。思わず鼻の下が伸びそうになった。
「最初に会った頃のレイラだったら、あそこまで戦えなかったかもしれないわ」
「そ、それは……」
否定できなかった。少し前までの自分なら、あの数を前に足が竦んでいたと思う。戦えなかったかもしれない。逃げ出していたかもしれない。
だが今は違う。怖かった。今でも怖い。それでも前へ進めた。
その事実だけは誰にも否定できない。レイラはそっと床に置いた神斧に視線を落とした。神斧の蒼い刃には、僅かな氷の粒子が残っている。
それはまるで自分の成長を祝福してくれているようだった。
その一方、フレイは窓の外を見上げていた。黒い空。異常なほど濃い雲。本来の空とは明らかに違う。
「⋯⋯気になるな」
それは珍しく特に真面目な声だった。そしてレッドが振り向く。
「何かあったの?」
「空だ」
その一言で、全員が窓の外を見る。確かに異様だった。雲が動いている。
いや、正確には渦巻いている。何かを中心にしているようにして。するとミズリーが言う。
「さっきからずっとああなの」
「気付いてたのか?」
「ええ」
ミズリーの表情は険しかった。その隣でレッドは腕を組む。何かがおかしい。
最初から分かっていたことだが、その異常さがどんどん強くなっている。まるで校舎全体が巨大な渦の中心になっているような、そんな感覚だった。
「異変の中心ってやっぱり学校の中にあるんだよな?」
「そのはずよ」
ミズリーは頷く。
「じゃあ、原因は校舎内?」
「おそらくは」
ミズリーはそういったがが、まだ断定はできない。ただそれが不気味で仕方なかった。するとその時だった。
ピシッ――。
小さな音が響く。
「……ん?」
レッドが振り向く。音は窓からだった。そして次の瞬間。
ピシピシピシッ――!
窓ガラスへ無数の亀裂が走った。
「なっ!?」
全員が身構える。だがガラスは割れない。亀裂だけが広がる。まるで見えない何かが外から押し付けられているようだった。
レイラの背筋に冷たいものが走る。
「なに……これ」
誰も答えられない。だが、その異常現象は数秒で止まった。亀裂も、振動も。何事もなかったかのように。
「今のは……」
レッドが呟く。ミズリーは口を噛んだ。嫌な予感が強くなる。この異変は進行している――確実に。
そして何かが近付いている。そんな気がしてならなかった。
「あっ、そういえば⋯⋯」
すると突然レイラが口を開く。それはフレイの方を向けられていた。
「ねぇねぇ」
「なんだ」
「ちゃんと名前覚えたよー!」
「当然だ」
フレイが満足そうに頷く。
「じゃあ改めて確認する!」
「なぜだ」
「大事だから!」
「大事なのか」
レイラは咳払いをする。そして自信満々に言った。
「フライドチキン!」
「違う」
「フライパン!」
「違う」
「フランスパン!」
「違う」
「惜しいわよ!」
「1つも惜しくない!」
途中でミズリーが入り込み、レッドはツッコミを入れながら吹き出した。
ミズリーも思わず笑ってしまう。フレイは額を押さえて天を仰いだ。
「なぜだ……」
「ごめん」
「謝るなら覚えろ」
「ぜんしょいたします⋯⋯!」
「覚える気ないだろ」
いつものやり取り。だがその空気に、ほんの少しだけ救われていた。
誰も口には出さない。けれど、分かっている。今この瞬間だけが、束の間の平穏なのだと。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして――同じ頃。校舎の屋上。黒い雲が渦巻く空の下、闇に溶け込む1人の男が立っていた。
男はフェンスへ片手を置き、校庭を見下ろしている。その視線の先にあるのは学校。そして異変の中を進む4人。
「……ほう」
男は小さく呟いた。その声には僅かな感心が混じっている。
「量産型の雑兵を突破したか」
まるで試験の結果を確認する教師のような口調だった。男の周囲では黒い影が揺れている。
生き物のように。意思を持つかのように。ゆっくりと、不気味に。
「少しはやるようだな」
男は肩を竦めた。だが反省している様子はない。むしろ楽しんでいた。観察していた。興味深い玩具を見るように。
「まあいい」
男は踵を返す。
コツ。
コツ。
コツ。
静かな足音が屋上へ響く。空では黒雲が渦を巻いていた。
異変は加速している。そしてそれを引き起こしている張本人だけが、その事実を知っていた。やがて男は立ち止まり、そして振り返った。黒い瞳が校舎を見下ろす。その目には冷たさしかない。
「だからわざわざ学校を戦場にしてやったんだ――」
低い声が風へ溶ける。黒い影が一際大きく脈動した。
空気が震え、空が唸る。まるで世界そのものが男へ呼応しているかのようだった。そして男は微笑む。静かに、不気味に。絶対的な余裕を持って。
「ここからは、絶対に逃さない」
その言葉と同時に、校舎全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴゴ……。
地鳴りのような音。窓ガラスが震える。そして壁が軋んだ。
すると校舎内にいたレッドたちは思わず顔を上げた。――何かが起きた。だが何が起きたのか分からない。それでも1つだけ言えることがある。
異変はまだ終わっていない。むしろ――本当の悪夢は、これから始まる。




