第17話「鷹の目の冷笑」
異変が始まってからどれほどの時間が経っただろうか。実際にはそれほど長い時間ではないはずだった。
だが、レイラたちにとっては何時間にも感じられるほど濃密な時間だった。校舎を覆う闇は依然として消えない。窓の外に広がる空も黒く染まったまま。
本来なら聞こえるはずの生徒たちの声も、風の音もない。あるのは不自然な静寂だけだった。まるで世界そのものが息を潜めているかのように。
その異様な空気の中、レイラとミズリーは慎重に廊下を進んでいた。先程までの戦闘で敵は全滅した。しかし、異変の気配は消えていない。
むしろ、どこかでより大きな何かが動いているような感覚さえあった。
「……静かね」
ミズリーが呟く。レイラは小さく頷いた。
「逆に怖いかも……」
先程まであれほど暴れていた竜牙兵たちが嘘のように消えている。だが、それが安心材料にはならない。
むしろ嵐の前の静けさを思わせた。レイラはアクレシアを握り直す。戦闘は終わった、そう思いたい。けれど胸の奥では警鐘が鳴り続けていた。
「レッドたち、大丈夫かな……」
「大丈夫よ」
ミズリーは即答した。
「少なくとも、レッドは簡単にやられるような子じゃないと思うわ」
「それはそうなんだけど……」
「それにフレイもいるし」
「フレ⋯⋯なんとかさんが1番不安かも」
「確かに」
2人の意見が一致した。レイラは少しだけ苦笑するこうして話していると、不思議と緊張が和らぐ。だが次の瞬間だった。
ドォォォォォォンッ!!
校舎全体が大きく揺れた。
「きゃっ!?」
レイラが思わず身を縮める。天井から埃が落ち、壁が軋む。
まるで何かが校舎へ体当たりしたかのような衝撃だった。
「今の何!?」
ミズリーも眉をひそめる。その時だった。遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
「レイラ!!」
「……え?」
レイラが目を瞬かせる。今の声は、間違いなく――
「レッド?」
その直後。壁の向こう側から轟音が響いた。すると次の瞬間、壁が吹き飛んできた。
「うわぁぁぁぁっ!?」
粉塵が舞い上がり、視界が真っ白になる。レイラは反射的に身構えた。
だが、その煙の中から飛び出してきた人物を見て固まる。
「レッド!?」
「無事か!?」
そこにはレッドがいた。埃まみれになりながらも元気そうな姿。
その後ろには当然のようにフレイもいる。しかし、問題はそこではなかった。レイラはゆっくりと壁を見る。
大穴が開いている。どう見ても普通の登場ではない。
「……な、何やってるの?」
「最短ルートだ」
フレイが胸を張る。
「少し壁を壊しただけだ」
「だけじゃないんだよなぁ……」
レッドが頭を抱えながら呟く。どうやら本当に壁を破壊して来たらしい。レイラは呆れたようにため息を吐く。
だが、気付けば笑っていた。無事だった。2人とも無事だった。それだけで胸の奥が温かくなる。
「よかったぁ……」
ぽつりと漏れた本音。レッドは少しだけ目を丸くした。だがすぐに笑う。
「そっちも無事そうだな」
「うん」
短い会話。それだけで十分だった。仲間が揃った。それだけで安心感が違う。
しかし、その空気を壊す存在は、まだ残っている。
「ところでレイラ」
フレイが腕を組む。
「聞き捨てならない言葉が聞こえたのだが」
「?」
「『ふれ……なんとかさん』とは何事だ」
空気が止まった。すると自然にレイラの顔から血の気が引く。
「あ」
――しまった。思わず声に出ていた。フレイの目が細くなる。
「俺の名前を忘れたのか?」
「ち、違うよ?」
「本当か?」
「ほ、本当!」
「言ってみろ」
「えっ」
「今すぐ」
「えっ」
レイラの額に汗が流れる。沈黙。数秒の沈黙。そして――
「……フレンチトースト?」
「違う」
「フライドポテト?」
「違う」
「フライパン?」
「おい」
フレイの額に青筋が浮かんだ。そのやり取りに、レッドが吹き出す。そしてミズリーは顔を背けて体を震わせている。笑いを堪えているのだろう。
「覚えろぉぉ!!」
「ひぃぃぃぃっ!!」
レイラは全力でレッドの後ろへ隠れた。――いつもの光景。
だが、それが今は妙に心地よかった。ほんの少し前まで命懸けの戦いをしていたとは思えない、束の間の平穏だった。
しかし、その平穏は長く続かなかった。ふとミズリーの表情が変わる。笑みが消え、瞳が鋭く細められる。
「……来る」
その一言で全員の空気が変わった。レッドも。フレイも。レイラも――瞬時に戦闘態勢へ移る。
空気が重い。先程までとは比較にならないほど重い。まるで巨大な岩が胸の上へ乗ったかのような圧迫感。レッドは眉をひそめる。
「なんだ、この気配……」
「竜牙兵じゃないみたい」
ミズリーが答える。
「もっと強いようね」
その言葉にレイラの背筋が冷えた。先程の竜牙兵ですら十分脅威だった。その上を行く存在。そんなものが本当にいるのか。
「……敵性反応が1つあるのよ」
ミズリーは静かに続ける。
「しかも異変の中心とは別の」
「別?」
レッドが聞き返す。ミズリーは頷いた。
「つまり、異変を起こしている存在とは別に、もう1体いるってこと」
その言葉を聞いた瞬間、フレイの目が細くなった。
「⋯⋯異変の集大成ってわけか」
彼は静かに呟いた。空気が張り詰める。誰も冗談を言わない。誰も笑わない。
戦いはまだ終わっていなかった。むしろ、本番はこれからだった。
そして――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
同じ頃。校舎の屋上では、1人の男が静かに立っていた。
黒い外套。黒い手袋。黒い空。その全てが闇へ溶け込んでいる。男は校舎の下を見下ろしていた。まるで獲物を見定める狩人のように。
静かに、冷たく。そして愉しむように。
「……少し弄びすぎたか?」
男は小さく呟く。その口元に浮かぶのは微かな笑み。不気味なほど穏やかな笑みだった。
「まぁいい――ここからが本番だからな」
男はゆっくりと歩き出す。風が外套を揺らし、闇が揺れる。そして男は静かに呟いた。
その声は誰にも届かない。だが確かに、――狩りは始まろうとしていた。




