第16話「束の間の平穏」
蒼い氷片が、静かに宙を舞っていた。先ほどまで荒れ狂っていた冷気も徐々に収まり、戦場を包んでいた轟音は嘘のように消え去っている。残されたのは静寂だけだった。
レイラは神斧を握ったまま、その場に立ち尽くす。
そして、肩で大きく息をする。肺が熱い。腕も重い。脚も震えている。それでも、視線だけはまっすぐ前を向いていた。
先ほどまでそこにいた竜牙兵たちは、もう1体も残っていない。砕けた氷の欠片と骨片だけが、戦いの激しさを物語っていた。
「もう、後悔はしない⋯⋯!」
そう言い切った瞬間だった。張り詰めていた緊張の糸が切れたように、全身から一気に力が抜ける。
「あっ――」
膝が折れた。レイラはそのまま床へ座り込む。神斧を支えにしなければ倒れてしまいそうだった。
胸の奥がじんじんと熱い。それでいて不思議と軽い。まるで長い間背負い続けていた重荷が、ほんの少しだけ下ろされたような感覚だった。
呼吸を整えながら、レイラはゆっくりと目を閉じる。すると、先ほどの戦いが脳裏に浮かんだ。敵たちの群れ。押し寄せる恐怖。蘇った過去の記憶。胸を締め付ける後悔。逃げ出したくなるほどの苦しさ。
だが、それらすべてを乗り越えた。逃げなかった。目を背けなかった。立ち向かった。そして、勝った。
(できたんだ⋯⋯)
胸の奥で小さく呟く。
(私にも⋯⋯)
その言葉を思った瞬間、じわりと涙が滲んだ。これまで何度も自分の弱さを責めてきた。もっと強ければ。もっと勇気があれば。もっと早く立ち上がれていたら。
そんな「もしも」を何度も繰り返してきた。だが、今日だけは違う。
少なくとも今日だけは、自分自身を認めてもいい気がした。そんなことを考えていると、隣に気配を感じた。そしてそっと顔を上げる。そこにはミズリーがいた。
彼女はいつものように落ち着いた微笑みを浮かべながら、レイラの隣へしゃがみ込む。そして優しく頭を撫でた。
「⋯⋯よく頑張ったわね」
その言葉は、とても静かだった。けれど、どんな称賛よりも温かかった。そして一瞬。本当に一瞬だけ、レイラは呆然とする。そして次の瞬間――
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
盛大に泣いた。
「私やったよぉぉぉぉぉぉ!!」
涙が止まらない。鼻も赤い。顔もぐしゃぐしゃだ。先ほどまで凛々しく戦っていた少女と同一人物とは思えない。その様子に、ミズリーは思わず苦笑した。
「ええ、見てたわ」
「ほんとに!?」
「ほんとよ」
「私すごかった!?」
「すごかったわ」
「やったぁぁぁぁぁ!!」
そして再び泣く。感情のジェットコースターである。ミズリーは苦笑しながらも、その頭を優しく撫で続けた。ここまで来るのに、どれだけ苦しんだか知っている。どれだけ悩んだか知っている。
だからこそ、この涙を否定する気にはなれなかった。しばらくしてようやく落ち着いたレイラは、目元を拭きながら小さく息を吐いた。
「なんか⋯⋯夢みたい」
「夢じゃないわよ」
「だよね」
レイラは苦笑する。夢ではない。現実だ。自分が勝ったのも、恐怖を乗り越えたのも、全部現実だった。
しかし、その時だった。ミズリーの表情が少しだけ真剣になる。その変化にレイラも気付いた。
「⋯⋯どうしたの?」
「安心するのはまだ早いわ」
するとレイラの表情も引き締まる。
「え?」
ミズリーは周囲を見回した。竜牙兵たちは消えた。しかし、この異様な空気は消えていない。校舎を覆う不気味な気配も。空を覆う闇も。何1つ変わっていない。つまり――
「異変は、まだ終わっていないわ」
その一言が重く響く。レイラは無意識に拳を握った。そうだった。これはまだ途中だ。竜牙兵を倒しただけ。原因そのものを解決したわけではない。
「それに、レッドたちともまだ合流できてないのよね」
「レッド⋯⋯」
名前を聞いた瞬間、少しだけ安心する。あの頼もしい背中を思い出した。だが同時に不安も湧く。
レッドたちは無事なのだろうか。怪我はしていないだろうか。無茶をしていないだろうか。
「早く合流しましょう」
「うん」
レイラは立ち上がろうとする。だが――
「ふにゃっ⋯⋯?!」
足に力が入らなかった。そのまま前へ倒れそうになる。
「おっと危ない」
するとミズリーが身体を支えてくれた。レイラは顔を真っ赤にする。
「は、恥ずかしい⋯⋯」
「無理もないわ。あれだけ戦ったんだから」
「⋯⋯でも歩ける!」
「本当に?」
「たぶん!」
「⋯⋯信用できないわね」
「なんでぇ!?」
思わず頬を膨らませる。そんなやり取りに、ほんの少しだけ空気が和らいだ。束の間の平穏。束の間の安堵。
だが、それは長くは続かない。ミズリーはふと天井を見上げた。胸騒ぎがする。嫌な予感が消えない。まるで何かがこちらを見ているような感覚。
竜牙兵とは違う、もっと大きな何か。もっと危険な何か。
それが、この学校のどこかに存在している。そんな気がしてならなかった。
そして同じ頃。校舎の3階では、1人の少年と神獣が全力で廊下を駆け抜けていた――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
校舎の3階を、2つの影が駆け抜けていた。校庭の竜牙兵を倒した後、3階に戻っていたのだ。
薄暗い廊下。本来なら夕方の光が差し込んでいるはずの窓の外は、異様な闇に覆われている。まるで夜が無理やり引きずり出されたような空。空気は重く、肌にまとわりつくような不快感があった。
異変が始まってからというもの、校舎全体がどこか別の世界へ飲み込まれてしまったかのようだった。そんな空間を、レッドは全力で走っていた。呼吸は乱れていない。だが心は落ち着かなかった。
脳裏に浮かぶのはレイラの顔。そしてミズリーの顔。連絡が取れない。状況も分からない。それが何より不安だった。
「フレイ! 2人の位置は!?」
走りながら叫ぶ。隣を並走するフレイは真顔のまま真っ直ぐに答えた。
「1階だな」
「1階のどこだ!」
「多目的トイレ付近」
「なんでそんなことまで分かるんだよ……」
「俺を誰だと思っている」
「さぁ?」
「おい」
即答だった。フレイの眉がぴくりと動く。
「少しは敬ってもいいじゃないか」
「敬える要素ないよ」
「あるだろう」
「どこに」
「全部だ」
「全部かぁ……」
レッドは遠い目になった。だがこうして軽口を叩いていても、足は止まらない。むしろ焦りを誤魔化すために話している部分もあった。
もし2人が危険な状況にいたら。もし怪我をしていたら。もし――。
嫌な想像が次々と頭をよぎる。レッドはそれを振り払うように奥歯を噛み締めた。
「くそっ……」
思わず漏れた声。フレイはそんなレッドを横目で見た。
「心配か?」
「当たり前だろ」
即答だった。
「⋯⋯仲間なんだからな」
その言葉にフレイは小さく笑う。迷いもない、真っ直ぐな言葉。
だが今はそれだけ余裕がないのだろう。レッド自身も気付いていなかった。自分は、自分が思っている以上に仲間たちを大切に思っていることを。フレイは少しだけ表情を和らげた。
「安心しろ」
「え?」
「生きている」
その言葉には不思議な説得力があった。根拠などない。だがフレイが言うと、なぜか本当にそう思えてしまう。
「……そうだな」
レッドは小さく息を吐いた。だが次の瞬間、ふとあることに気付く。
「待て」
「なんだ」
「今3階だよな?」
「そうだな」
「1階まで行くのに時間かかるじゃん」
「まぁな」
「もっと早い方法ないのか?」
するとその問いに、フレイは当然のような顔で窓を指差した。
「あるぞ」
「え?」
「階段を使わなければいい」
「は?」
フレイは窓の外を見る。そして――
「飛び降りる」
「…………」
一瞬。時間が止まった。
「は?」
「だから飛び降りる」
「聞こえてる」
「なら問題ないな」
「問題しかないだろ!!」
レッドの全力ツッコミが廊下に響く。しかしフレイは真顔だった。冗談ではない。本気で言っている。
「いや待て待て待て」
「なんだ」
「ここ3階だぞ?」
「そうだな」
「普通死ぬよ?」
「一般人ならな」
「お前は大丈夫なのか?」
「大丈夫に見えないのか?」
「意味が分からん」
フレイはため息を吐いた。
「とにかく、お前は大丈夫だ」
「なんで」
「大丈夫だからだ」
「その理論怖いんだよ!」
しかし、冷静に考える。確かに最短ルートではある。異変の中で常識を気にしている場合でもない。
レッドは窓の外を見た。高い。普通に高い。落ちたら絶対痛い。というか怖い。
「……マジで?」
「マジだ」
「マジかぁ……」
数秒の沈黙。そして――彼は覚悟を決めた。
「よし、行くか」
「その意気だ」
窓を開ける。冷たい風が吹き込んできた。闇に覆われた校庭が見える。高い。やっぱり高い。
「……帰ったら、絶対文句言うからな」
「生きて帰れたらな」
「不吉なこと言うな!」
そして――レッドは飛んだ。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
重力が身体を引っ張る。景色が一気に流れる。怖い。めちゃくちゃ怖い。
だが、身体は自然と動いた。着地の瞬間。衝撃を流す。転がる。受け身を取る。気付けば無事に立っていた。
「……あれ?」
レッドは目を瞬かせる。痛くない。骨も折れていない。普通に立っている。
「できた」
「だから言っただろう」
フレイは涼しい顔だった。
「なんか最近、自分が人間なのか分からなくなってきた」
「今更だな」
「今更なの!?」
だが、落ち込んでいる暇はない。レッドはすぐに表情を引き締めた。
「それじゃあ、急ごう」
「ああ」
2人は再び走り出す。目指すはレイラたちのいる場所。その時だった。レッドは一瞬だけ立ち止まる。
「……なんだ、これ」
「どうした」
「いや……」
胸騒ぎがした。嫌な感覚。さっきまでとは違う。もっと濃い。もっと重い。まるで巨大な何かが息を潜めているような気配。
「⋯⋯気付いたか」
フレイの声が低くなる。レッドは頷いた。
「ああ」
竜牙兵とは違う。明らかに質が違う。存在感そのものが異常だった。
それはまるで――獣の群れの中に、1匹だけ紛れ込んだ怪物のような気配。フレイは静かに目を細める。
「どうやら……本命がいるらしいな」
その言葉と同時に。校舎のどこかで、不気味な気配が大きく脈打った。まるで自分たち全員の接近を歓迎するかのように、狩りの始まりを告げるかのように。
静かに。そして確実に。闇の奥で何かが目を覚まそうとしていた。
そのことを、まだ誰も知らない。ただ1人を除いて。
校舎の最上部、屋上。闇に溶け込むような黒い外套を纏った男が、静かに校庭を見下ろしていた。その口元に浮かぶのは、微かな笑み。期待するような、試すような。あるいは――獲物を見定めるような笑みだった。
男は何も言わない。ただ静かにレッドたちの接近を見つめる。そして、ゆっくりと目を閉じた。まるで全てが予定通りであるかのように――。
――束の間の安堵は終わる。本当の異変は、これから始まろうとしていた。




