第13話「恐怖を超えて」
白い光が視界を包み込む。足元の感覚が消え、身体がふわりと浮かび上がるような不思議な感覚。
次の瞬間――レイラは、見知らぬ場所に立っていた。
「……ここ、どこ……?」
思わず呟く。先ほどまでいた校舎はどこにもなかった。代わりに広がっていたのは、息を呑むほど美しい景色だった。
青い空。柔らかな風。木々のざわめき。透き通るような湖。水面は鏡のように静かで、空の青をそのまま映している。
異変の中にいたとは思えないほど穏やかな世界だった。胸を締め付けていた恐怖が、少しだけ薄れていく。風が頬を撫でる。どこか懐かしい香りがした。
「夢……?」
レイラは周囲を見回した。だが返事はない。ただ湖面だけが静かに揺れている。――その時だった。
「来ちゃったかな?」
「っ!」
少女の声が響く。レイラは反射的に振り向いた。湖のほとり。そこに、1人の少女が立っていた。
長い水色の髪。風に揺れる後ろ姿。湖面の光を受けて、その髪は宝石のように輝いて見える。年齢は、自分より少し上だろうか。
だが、不思議と近寄りがたい雰囲気があった。
「あの……」
少女は振り返らない。ただ湖を見つめたまま、小さく笑った。
「あ、この場所は気にしなくていいよっ!」
「え、えっと……」
「説明すると長いし!」
妙に軽い。先ほど聞こえた神秘的な声の主とは思えないほど親しみやすかった。そのギャップにレイラは少しだけ戸惑う。
「あなたが……さっきの……?」
「そうだよ」
少女はあっさり認めた。
「えっと……誰?」
「それも今は秘密かな」
「秘密⋯⋯?」
「ひみつ!!」
なぜか得意げだった。レイラは思わず力が抜けそうになる。
だが次の瞬間、少女の声色が少しだけ変わった。
「あなた、戦いが怖いんでしょ」
図星だった。レイラは視線を逸らす。
「それは……」
「怖いよね」
「……」
「うん、分かる」
優しい声だった。否定しない。馬鹿にもしない。ただ受け止めてくれる。それだけで胸が少し軽くなる。
「私ね」
少女は湖を見つめたまま言う。
「昔、すごく怖かったことがあるんだ」
「……」
「逃げ出したかったし、全部投げ出したかった」
レイラは黙って聞いていた。
「でもね」
少女は続ける。
「誰かがやらなきゃいけなかった」
風が吹く。湖面に小さな波紋が広がる。
「だから、前に進んだ」
「……」
「でも、怖くなくなったわけじゃないよ?」
少女は少し笑った。
「今でも怖いものは怖い」
「そうなの?」
「うん」
レイラは少し驚いた。こんなに落ち着いて見える人でも、怖いものはあるらしい。
「でもね」
少女は静かに続ける。
「勇気って、怖くなくなることじゃないの」
その言葉に、レイラは目を瞬かせた。
「え……?」
「怖くても、前に進むこと。それが勇気」
少女はそう言った。その言葉は、不思議なくらい胸に響いた。そしてレイラは思い出す。校舎で眠っている生徒たち。倒れていた先生。不安そうなレッドの顔。
そして――自分を信じてくれた神獣たち。
「私……」
レイラは小さく呟く。
「⋯⋯怖い」
「うん」
「⋯⋯すごく怖い」
「うん」
「戦うのも嫌だし、怪我するのも嫌」
「うん」
少女は否定しない。ただ静かに聞いてくれる。
「逃げたい」
「ええ」
「帰りたい」
「わかる」
それでも、レイラの胸の奥には別の感情もあった。
「でも……」
そうレイラが言いかけると、少女が微笑む。それはまるで続きを待っているようだった。
「――みんなを助けたい」
その言葉が出た瞬間。自然に胸の奥が熱くなった。
「レッドのことも」
「うん」
「みんなのことも」
「うん」
「助けたい」
そして、少女は小さく笑った。
「それでいいんだよ」
優しい声だった。母親のような。姉のような。そんな温かさがあった。すると、少女はゆっくりと振り返る。
だがその顔だけは見えなかった。光に包まれている。輪郭は見えるのに、どうしても顔だけが認識できない。まるで世界そのものが隠しているかのように。そして、少女は言う。
「今回も同じ。誰かが正しく動かなきゃいけない」
その声はどこか悲しそうだった。
「私たちだって……判断次第で、この世界が滅び――」
「え?」
レイラが反応する。だが、少女は首を振った。
「ううん、なんでもない」
明らかになんでもなくなかった。しかし少女は話を変える。そして真っ直ぐレイラを見つめた。
「要するにね。未来は変えられる」
その言葉には、不思議な説得力があった。
「未来……」
「そう」
少女は頷く。
「そして今回、その“誰か”があなた」
「私……?」
「そう。レイラ」
名前を呼ばれる。優しく。まるで期待を込めるように。
「あなたたちの手に、この学校の生徒たちの命がかかってる」
レイラは息を呑んだ。
「数百人いる……」
「ええ」
重い。あまりにも重い。だが、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。怖い。それは変わらない。けれど、それ以上に、助けたいと思った。
すると少女は最後に一歩前へ出る。そして、柔らかく微笑んだ。
「だから――恐怖なんかに負けないで」
その声が胸に響く。
「救ってあげて」
風が吹く。湖面が輝く。世界が青く染まる。
「生徒たちの命を、そして――」
光が溢れ、少女の声が重なる。
「輝きのある世界の未来を!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――ハッ!!」
レイラは勢いよく顔を上げた。気づけば校舎の廊下だった。竜牙兵はまだ目の前にいる。ミズリーもいる。時間はほとんど経っていない。
夢だったのか。幻だったのか。それとも――。分からない。
だが、1つだけ確かなことがあった。胸の奥で何かが灯っている。さっきまで震えていた心が、不思議なほど落ち着いていた。
怖い。もちろん怖い。けれど、もう逃げたいとは思わなかった。レイラはゆっくりと立ち上がる。その様子を見たミズリーが目を見開いた。
(震えが……止まってる……!)
表情が違う。目が違う。さっきまでの彼女とは明らかに何かが変わっていた。そして、ミズリーは微笑む。
(なら――今しかないわね)
ミズリーは、ゆっくりと右手を掲げた。その瞬間、周囲を漂っていた闇がわずかに揺らぎ、淡い蒼光が静かに集まり始めた。
光は小さな粒となって宙を舞い、まるで星々が引き寄せられるように一点へ収束していく。冷たく、それでいて優しい輝き。
まるで深い湖の底から差し込む陽光のような神秘的な光だった。やがて光は巨大な輪を描き、その中心から1つの武器が姿を現す。
それは斧だった。だが、ただの斧ではない。
「四大神器が一柱、水氷の神斧――」
刃の部分は透き通る氷晶のように美しく、その内部では蒼い光がゆっくりと流れている。柄には水流を思わせる装飾が刻まれ、まるで世界そのものが形を成したかのような神聖さを纏っていた。
その存在が現れただけで、空気が震える。いや、空気だけではない。空間そのものが、その神威に畏敬の念を抱いているようだった。
そしてミズリーは静かに告げる。まるで神話を語る巫女のように。
「 『氷下に抱く天水の夢』 よ」
その名が紡がれた瞬間。神斧はひときわ強い蒼光を放った。レイラは思わず息を呑む。
美しい。ただ、それだけでは言い表せない。どこまでも神聖で。どこまでも優しく。そして、どこまでも強い。そんな力を感じた。
「そして、これも⋯⋯!」
ミズリーが指を鳴らす。すると今度はレイラの身体が淡い光に包まれた。
「えっ……!?」
驚く間もない。光は彼女の全身を優しく包み込み、制服の輪郭をゆっくりと書き換えていく。
水面のような模様。氷の結晶を思わせる装飾。透明感のある蒼白の意匠。やがて光が収まった時、レイラの姿は完全に変わっていた。
それはエレメンターだけに許された戦闘装束――スキルスーツ。
水と氷のエレメントを象徴する神秘的な装いだった。袖を通しているはずなのに重さを感じない。それどころか身体が軽い。胸の奥から力が湧き上がってくる。
「これが……私の……」
レイラは自分の両手を見つめる。先ほどまで震えていた指先は、もう止まっていた。ミズリーは小さく微笑んだ。
「レイラ! これ受け取って!」
そう言うと、『氷下に抱く天水の夢』を軽く放り投げる。神斧は蒼い軌跡を描きながら空中を舞った。
レイラは反射的に手を伸ばすす。そして、やがて彼女の手の中へ収まる。初めて触れたはずなのに、不思議な感覚だった。
まるで昔から使い慣れていたような。長い年月を共にしてきた相棒のような。そんな懐かしさを感じる。そしてレイラはゆっくりと神斧を構え、軽く振るう。
ヒュッ――と澄んだ音が響く。
刃が空気を切り裂き、淡い冷気が周囲へ舞い散った。竜牙兵が低い唸り声を上げる。だが、先ほどまでのような恐怖はなかった。
怖い。それは今でも変わらない。怪物は怖い。戦うのも怖い。傷つくのも怖い。それでも――。
守りたいものがある。助けたい人たちがいる。胸の奥で灯った想いは、恐怖よりも強く燃えていた。レイラは神斧を後ろへ構え、静かに目を開いた。
「怖い⋯⋯でも――守りたい」
小さな声だった。だが確かな決意が宿っている。ぎゅっと拳を握る。足に力を込める。そして一歩。
前へ踏み出した。
その姿は、もう先ほどまで怯えていた少女ではない。誰かを守るために立ち上がった、1人のエレメンターだった。
「私も⋯⋯やれば、できるんだっ⋯⋯!」
その言葉と共に。少女の最初の戦いが、幕を開けようとしていた。




