第12話「震える少女と蒼き声」
レッドが校庭で初めての戦いに身を投じていた頃。
同じ異変の中で、もう1人のエレメンターもまた、自らの試練と向き合っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
校舎の中は、不気味なほど静まり返っていた。それは単なる静寂ではない。
音そのものが世界から切り取られてしまったかのような、異質な沈黙だった。
普段なら、生徒たちの笑い声が聞こえてくるはずだ。友達同士の他愛ない会話。廊下を走る足音。教室で机を動かす音。先生に怒られる生徒の声。
そんな日常を形作る音が、この学校から完全に消え失せていた。聞こえるのは、自分たちの足音だけ。
コツ……。
コツ……。
長い廊下に反響するその音は妙に大きく聞こえ、かえって不安を煽ってくる。
「うぅ……」
レイラは小さく身を縮こませた。肩が震えている。両腕で自分の身体を抱きしめるようにしながら歩く姿は、寒さに耐えているようにも見えた。
しかし、実際に彼女を震わせているのは寒さではない。恐怖だった。先の見えない不安だった。
異変という未知の存在に対する本能的な恐れだった。隣を歩くミズリーは、そんなレイラの様子を横目で見て苦笑する。
「あら、どうしたの?」
分かりきったことをあえて聞く。するとレイラは涙目で振り向いた。
「ば、ばばばば、ば……」
完全に言葉になっていなかった。口は動いているのに、何を言っているのか全く分からない。ミズリーは思わず吹き出しそうになる。
「はいはい、なるほどね」
「な、なにが……?」
「怖いのよね」
「ち、違うもん!」
即答だった。だがその声は震えている。膝も震えている。顔色も青い。どう見ても怖がっていた。
「怖くなんか……ないもん……」
「そういうことにしておきましょうか」
「ほんとだもん……」
レイラはむぅっと頬を膨らませた。だが次の瞬間には再び辺りを見回している。それだけで彼女の余裕のなさが分かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
レイラは昔から怖がりだった。ホラー映画は苦手。お化け屋敷も苦手。夜道を一人で歩くのも苦手。
だからこそ、今の状況は彼女にとって最悪だった。誰もいない学校。静まり返った校舎。何が起きるか分からない異変。
そして――戦わなければならないという現実。
(帰りたい……)
それが正直な気持ちだった。世界を救うだとか。異変を解決するだとか。そんな大きな話をされても実感が湧かない。昨日まで普通の高校生だったのだ。
朝起きて学校へ行き、友達と話し、授業を受けて帰る。それだけだった。
それなのに突然、エレメンターになった。世界を守れ。異変を解決しろ。と言われても困る。
(なんで私なの……)
胸の中で呟く。レッドなら分かる。ああ見えて正義感が強いし、困っている人を放っておけない性格だ。でも自分は違う。自分はただの普通の女の子だ。
怖いものは怖い。危険なことは嫌だ。痛い思いなんてしたくない。それの何が悪いのだろう。
「早く帰りたいよぉ……」
思わず本音が漏れた。するとミズリーは少しだけ優しい顔を浮かべて言った。
「気持ちは分かるわ」
「ほんと……?」
「ええ」
ミズリーは静かに頷いた。
「誰だって最初はそうよ」
「……」
「怖いし、不安だし、逃げ出したくなる」
その言葉にレイラは少しだけ救われた気がした。神獣も最初から強かったわけではないのかもしれない。そんなことを思った。だが、ミズリーは続ける。
「でも、異変を解決しない限り帰れないわよ」
「うっ……」
現実は甘くない。レイラは再び肩を落とす。
その時だった。ふわり、と空気が変わる。
「……え?」
レイラは足を止めた。妙な寒気がした。背筋を氷でなぞられたような感覚。温度が下がったわけではない。それでも本能が警鐘を鳴らしていた。危険。近い。何かがいる、と
次の瞬間、廊下の奥から黒い煙が溢れ出した。まるで闇そのものが液体になったかのような色。床を這い、壁を伝い、ゆっくりとこちらへ広がってくる。
「な、なに……?」
レイラの声が震えた。嫌な予感しかしない。そして――。
ガキッ。
ギチッ。
ゴリ……ゴリ……。
骨が擦れ合う音が響いた。
「ひっ……!」
レイラの身体が跳ねる。黒煙の中で何かが動いた。最初は影だと思った。だが違う。それは徐々に輪郭を持ち始める。
骨。牙。歪な頭蓋。巨大な身体。その正体は、竜牙兵。その異形の姿が完全に現れた瞬間、レイラの思考は停止した。
――怖い。
その感情しかなかった。竜牙兵の眼窩には目がない。それなのに、確かにこちらを見ている気がした。肌が粟立つ。呼吸が苦しい。心臓が暴れる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動が耳元で鳴っているように響く。
「はぁ……はぁ……」
息が上手く吸えない。逃げたい。逃げなければ。そう思うのに足が動かない。
身体が石になったように硬直していた。すると、竜牙兵が一歩前へ出る。その瞬間、レイラの全身から血の気が引いた。
「やだ……」
声が漏れる。
「怖い……」
涙が溢れ、視界が滲む。頭の中は真っ白だった。
「⋯⋯レイラ!」
ミズリーの声が聞こえる。だが届かない。既に恐怖が全てを支配していた。
竜牙兵が腕を持ち上げる。それだけでレイラは限界だった。
「たすけて……」
その言葉と共に、レイラはその場へ崩れ落ちてしまう。立てない。戦えない。逃げることもできない。
――ただ、震えることしかできなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ミズリーは唇を噛んだ。
(まずいわね……)
ここまでとは思わなかった。その気になれば、それなりにだが自分が代わりに戦うことはできる。今すぐ竜牙兵を倒すことだって可能だ。
だが、それでは意味がない。今回の試練はレイラ自身が乗り越えなければならない。
エレメンターとして。そして未来を守る者として。
(どうすれば……)
すると――
「立って、レイラ」
その時、空気が揺れる。どこからか、誰もいないはずなのに、確かに声が響いている。これはレイラにしか見えていなかった。
優しい声だった。温かい声だった。まるで長い間ずっと見守ってくれていた人のような声。レイラはゆっくり顔を上げる。
「……え?」
誰もいない。けれど確かに聞こえた。
「どんなに怖くても、逃げたら何も変わらない」
静かな声。それでいて不思議な力を持った声。
「最初は、誰だって怖い」
その言葉が胸に染み込む。
「それでも、その恐怖を乗り越えたから未来がある」
涙で滲む視界の向こう。何も見えない。なのに不思議と安心した。知らない声なのに。初めて聞くはずなのに。なぜか、懐かしかった。
「私たちだって……そうだったから……」
その瞬間。世界が白く染まった。竜牙兵も。ミズリーも。校舎も。全てが光の中へ溶けていく。やがて、レイラの意識は、どこか別の場所へと導かれていった。
――そこに待つ少女との出会いが、彼女の運命を大きく変えることになるとも知らずに。




