第10話「炎の覚醒」
校庭の中央。そこにあったはずの空間が、まるで水面のように歪み始めた。
いや、水面などという生易しいものではない。 黒い泥を無理やりかき混ぜているような、不快な揺らぎだった。
空気が重くなり、肌にまとわりつくような嫌な感覚。レッドは無意識に一歩後ずさった。
「……なんだよ、あれ」
その歪みは徐々に広がっていく。闇が集まる。黒い煙にも見える。しかし煙ではない。それはもっと濃密で、もっと禍々しいものだった。
まるで世界のどこかから切り取られた“悪意”そのものが流れ込んできているようだった。
やがて空間が軋き、耳障りな音が響く。
ギシッ。
ギギギッ。
何かが擦れ合う音。骨が軋むような音。生理的嫌悪感を掻き立てる不快な音が、静まり返った校庭へ響き渡る。レッドは眉をひそめた。
「この音……」
聞いているだけで気分が悪くなる。頭の奥を引っ掻かれているような感覚。
不快感と恐怖が入り混じる。だが、その異変の中心に立つフレイだけは微動だにしなかった。まるで全てを見通しているかのように。炎を宿すような瞳で、その闇を静かに見据えていた。
「来るぞ」
短い一言。次の瞬間だった。闇が弾けけ、校庭に轟音が響いた。
そして――
現れた。巨大な異形が。全身を骨で構成された怪物。人間の骸骨とは比べものにならないほど巨大な骨格。全高は3メートルを優に超えている。
腕は異様に長く、鋭い爪のような骨が並んでいた。そして何より目を引くのは、その顔だった。
無数の牙。獣の牙。竜の牙。正体不明の生物の牙。それらを無理やり寄せ集めて作ったような異形の仮面。眼窩の奥には紫色の光が灯っている。
それは生き物の目ではない。意思を持った呪いそのものだった。
「……Luuuuurrrrrrrrrrr」
低い唸り声が響く。その瞬間、レッドの背筋に寒気が走った。
声を聞いただけなのに。耳から入った音が頭の中へ直接流れ込んでくるような感覚だった。
「っ……!」
思わず顔をしかめる。
「なんだ、この声……」
気持ち悪い。不快だ。聞いているだけで吐き気がする。
すると、怪物はゆっくりと顔を上げた。そして――
「GRAAAAAAAA!!」
咆哮。校庭全体が震えた。窓ガラスが揺れ、空気が震える。その様子はまるで災害そのものが叫んだかのようだった。
「うわっ!?」
レッドは思わず身構える。足がすくみそうになる。――怖い。圧倒的な恐怖だった。これまで生きてきた中で感じたことのない種類の恐怖。
そして、本能が告げている。あれは人間が相手にしていい存在ではない、と。
だが、隣に立つフレイは平然としていた。
「ほう」
むしろ少し懐かしそうですらあった。
「 『竜牙兵』 か」
レッドが振り向く。
「知ってるのか?!」
「あぁ」
フレイはあっさり頷いた。
「久しく見ていなかったがな」
「そんな場合じゃないだろ!?」
どう見ても危険だ。今にも襲いかかってきそうだ。しかしフレイは小さく鼻を鳴らした。
「安心しろ」
「え?」
「あいつは雑兵だ」
「……は?」
レッドの思考が一瞬止まった。雑兵? 今、そう言ったか?
目の前には巨大な怪物がいる。どう考えても強そうだ。むしろラスボスにしか見えない。それなのに――
「ランクで言えば〈F〉」
そして、フレイは続ける。
「最弱クラスなんだぞ」
「嘘だろ!?」
思わず叫んだ。あれで最弱? なら上位種はどれほどの化け物だというのか。
想像したくもない。フレイは呆れたようにため息を吐いた。
「君はまだ何も知らないからな」
「いや知らないとかそういう問題じゃ……!」
「後で説明してあげるから」
そう言うと、フレイは竜牙兵へ視線を向けた。
「それより問題はこっちだ」
怪物がこちらへ歩き出していた。
ズシン。
ズシン。
一歩ごとに地面が揺れる。距離が縮まる。圧迫感が増していく。その威圧に、思わずレッドは息を呑む。
「ど、どうするんだ……」
戦うのか? 本当に? あれと?
そんなレッドを見て、フレイは静かに言った。
「そうだな。それでは――」
そして。
「まずは準備だ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その瞬間だった。レッドの身体を光が包み込む。
「なっ……!?」
驚く暇もない。暖かい。いや、熱い。身体の奥から炎が湧き上がってくるような感覚だった。
心臓が脈打つたびに熱が全身へ広がっていく。血液が炎へ変わったかのような錯覚。だが不思議と苦しくない。むしろ力が満ちてくる。
身体が軽い。視界が鮮明になる。さらには呼吸1つでさえ楽になっていた。
「なんだ……これ……」
光が収束する。そして、レッドの制服が変化した。白と赤を基調とした戦闘服。
炎を思わせる紋様。神秘的な輝きを放つライン。まるで英雄譚に登場する勇者でもあるかのようなの装束だった。思わず、レッドは自分の手を見つめる。
「これが……」
力が漲っている。今なら何でもできそうな気さえした。すると、フレイは満足そうに頷く。
「それは『スキルスーツ』だ」
「スキルスーツ……」
「エレメントを最大限活性化させる戦闘装束」
フレイの声が響く。
「君の体内には炎のエレメントが流れている」
「炎の……」
「それを制御し、増幅し、戦闘へ最適化するための装備だ」
レッドは改めて自分の姿を見る。信じられなかった。つい数日前まで普通の学生だった自分が、本当に異変と戦う存在になっている。
そんな実感が少しずつ湧いてくる。だが、フレイはまだ終わらなかった。
「そして――」
神獣が前へ出る。炎のたてがみが揺らぐ。
「本番はここからだ」
そう言って右前脚を掲げた。すると、空間に光が集まる。赤金色の光。眩い輝き。まるで太陽の欠片を凝縮したかのようだった。
やがて光は徐々に形を成していく。それは、剣。一振りの剣だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
レッドは息を呑んだ。その剣を見た瞬間。本能で理解した。普通の武器ではない。絶対に違う。存在そのものが異質だった。
神聖。荘厳。圧倒。ありとあらゆる言葉が足りない。ただそこに存在しているだけで空気が変わる。そんな錯覚を覚えるほどだった。
刃には紅蓮の輝き。刀身には黄金の紋様。柄には神々しい装飾。まるで神話から抜け出してきた武器そのものだった。そして、フレイが静かに告げる。
「――〝神創兵器〟 」
その一言だけが響いた。
「神が創りし武器」
レッドは息を呑む。神が創った武器。そんなものが本当に存在するのか。
「四大神器が一柱」
そのまま、フレイの声が続く。
「炎の神剣――」
世界が静まる。竜牙兵ですら動きを止めたように見えた。
そして、神獣はその名を告げる。
「 『神託す冠華の灼焔』 だ」
その瞬間。神剣が眩い輝きを放った。紅蓮の炎が刀身を包み込む。だが不思議と熱くない。むしろ心地良い。生命力そのものを感じる炎だった。レッドは言葉を失う。
「……すごぉ……」
それしか言えなかった。フレイは静かに神剣を差し出す。
「レッド」
その声は神としての威厳に満ちていた。
「受け取れ」
レッドはゆっくりと手を伸ばす。そして、神剣を握った。
その時、炎が呼応する。身体中のエレメントが共鳴し、力が溢れる感覚。そして、今まで感じたことのない高揚感。フレイはレッド見て静かに笑った。
「では――神直々に命じよう」
竜牙兵が咆哮を上げる。戦いが始まる。その直前。
フレイは最後に一言だけ付け加えた。
「レッド」
そしてどこか懐かしむような目をした。
「この神剣を以て――」
一瞬だけ。神獣の表情が遠い過去を見るようなものへ変わる。
「俺にお前の力を見せてみせろ」
そして。誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「今まで紡がれてきた――あの“想い”のように」
その意味を、今のレッドが知る由はなかった。レッドには意味が分からなかった。だが、今は聞き返す余裕もない。目の前には敵がいる。守るべき人たちがいる。そして今、自分の手には神剣がある。ならばやることは1つだった。
レッドはゆっくりと剣を構える。胸の奥で炎が脈打つ。覚悟は決まった。異変を終わらせるために。仲間を守るために。そして――エレメンターとして。
彼は最初の一歩を踏み出そうとしていた。




