96-14
「……やっぱり、出ない」
高橋優也は、スマートフォンの画面を見つめて低く呟いた。
呼び出し音すら鳴らない。
無機質なアナウンスが「おかけになった電話番号は現在使われておりません」と繰り返すだけだ。
隣に立つ木原和翠も、不安げに唇を噛んでいる。
二人が久志と唯のアパートを訪れたのは、音信不通になってから三日が経過した頃だった。
「……鍵、開いてる」
和翠がドアノブを回すと、抵抗なく扉が開いた。
だが、そこに広がっていたのは二人の知る「生活」ではなかった。
家具も、食器も、二人の匂いすらも。
リサイクル業者によって「空」にされた部屋。
それは、まるで最初から誰もいなかったかのように、冷たい静寂だけが溜まっていた。
「……なんだよ、久志、悪い冗談だろっ!」
優也の叫びが、何もない壁に虚しく反響する。
その時だった。二人のスマートフォンが、同時に聞き慣れない通知音を鳴らした。
届いたのは、「差出人不明」のビデオメール。
添付された動画ファイルを再生した瞬間、二人は息を呑んだ。
画面に映っていたのは、夜の闇に沈む「リク電」の車内だった。
車内にまで入り込んだ異常な冷気が、窓の外の街灯を反射して、無数の光の粒となって舞っている。
『……俺たちは、あの日、古木の丘で全てを終えた』
ダイヤモンドダストに縁取られるように、久志と唯が並んで座っていた。
その光景は、まるで新しい門出を祝う光のシャワーを浴びているかのように、神々しくさえ見えた。
だが、久志の声は、かつてないほど低く、透き通っている。
『……このメールが届く頃、俺たちのいた部屋には、もう何も残っていない。……全部、捨てた。俺たちの名前も、記憶も。……じゃあ、さよならっ』
カメラがふいに向きを変え、開け放たれた車両のドアの向こう、真っ暗な崖の下を映し出した。
吹き荒れる雪と、吸い込まれるような黒い海。
映像は、激しい潮風の音と共に、唐突に途切れた。
◆
同じ頃。
海鳴りが轟く、茨堂陸島の最北端。
久志と唯は、吹き荒れる風の中で、切り立った崖の縁に立っていた。
吸い込む息が肺を刺すほどに凍てついているのに、舞い散るダイヤモンドダストは、まるで二人の結末を称えるかのように幻想的に煌めいている。
「……寒いね、久志。指先の感覚が、もうないよ」
唯が震える声で笑い、久志のコートの袖を掴んだ。
久志はその手を、自分のポケットの中へと優しく導き、強く握り返す。
「ああ。……でも、この寒さが心地いい。……世界から、自分たちが少しずつ削り取られていくようだ」
ふいに、唯が思い出したように顔を上げ、久志の瞳を悪戯っぽく覗き込んだ。
「ねえ……さっきのビデオ、私の表情、どうだった? ちゃんと『怖がってる』ように見えたかな」 「ああ。迫真の演技だったよ。……今頃あいつ、あの映像を何度も見返して、一生自分を責めることになるだろうな」
久志の言葉に、唯は満足そうに微笑み、その胸に深く顔を埋めた。
「……ふふっ、有名になっちゃうかな? 悲劇のヒロインとして、優くんの心の中にずっと住み着いてあげるんだから」
「ああ。……もし来世があるなら、その時は二人で、本当の役者にでもなろうか」
「……うん。いいね。……その時は、一緒に夢を叶えようね、久志」
二人の会話は、もはやこの世の理から外れていた。
復讐を愛のように語り、絶望を喜劇のように笑い飛ばす。
その歪な純粋さこそが、彼らがたどり着いた唯一の救いだった。
「唯。……どこまでも、一緒だ。……もう二度と、誰にも見つからない場所へ行こう。……俺たちの名前も、過去も、この海が全部飲み込んでくれる」
久志はそう言って、格安スマホを暗闇の底へと放り投げた。
それは、彼らを「現世」に繋ぎ止めていた、最後の、そして唯一の通信手段だった。
唯の瞳には、ダイヤモンドダストの反射が星のように宿っていた。
二人は顔を見合わせ、深く、一度だけ頷いた。
久志が、崖の縁に自分の靴を揃えて置く。
唯もそれに習い、上着を岩場に引っ掛けた。
風に煽られた布地が、まるで命を失った蝶のように力なく揺れる。
「……ねえ、怖くないって言ったら嘘になるけど。……寂しくはないよ。……あの日、美桜吏さんが見せた光の中に、私たちも行けるんだよね?……それじゃあ、行こう。……『約束の場所』に」
そして、ダイヤモンドダストの光の壁の中へ、吸い込まれて行った。
Chapter ends; the next chapter begins.




