95-13
美桜吏をあの古木の丘で見送ってから、一ヶ月。
季節の変わり目の湿った風が、アパートの廊下を吹き抜けていく。
「……これで、全部だね」
唯が床に置いたのは、肩にかけられる程度の大きめのボストンバッグが二つ。
その中身は、数日分の着替えと、分厚い封筒に詰め込まれた現金だけだ。
これから「新生活」を始めるにしては、あまりにも身軽で、あまりにも生活感が欠落していた。
「ああ。……重いモノは、もういらない」
久志は、部屋の隅に積み上げられたダンボールの山を一瞥した。
中には、かつて二人の生活を彩っていた食器や、思い出の詰まった小物が無造作に詰め込まれている。
だが、その箱の蓋が閉じられることはない。
「……これ、明日リサイクル業者が取りに来てくれるんだよね?」
唯がぽつりと呟く。
「全部、誰か知らない人の手に渡っちゃうのかな。……私たちのいた場所、なくなっちゃうんだね」
「……それでいい。……形のあるものは、いつか壊れる。あの時計みたいにな」
久志はそう言いながら、部屋に残った唯一の書類を、ライターの火で静かに炙った。
灰が灰皿の中に落ち、二人の「これまで」が、目に見えない粒子となって空気中に溶けていく。
「……変だよね、久志」
唯が、空になったクローゼットの奥を見つめたまま、独り言のように漏らす。
「引っ越しの準備をしてるのに……私、どこに行くのか、よくわかってない気がする。……わたしたち、どこへ向かうんの?」
久志は火を消し、静まり返った部屋で唯を見つめた。
「……ここではないどこか。……一番安全な場所だ」
その「安全」という言葉の意味が、今の二人の状況にはあまりに不釣り合いで、薄気味悪いほどに響いた。
窓の外では、夕闇が街を塗りつぶそうとしていた。
明日、リサイクル業者がこの部屋を訪れるとき、そこには「中身のない生活」だけが取り残されているはずだ。
「……行こうか」
久志が、現金と着替えの詰まった重いバッグを肩にかける。
二人は、まだ荷物の残る__しかし「魂」だけが抜けたような奇妙な部屋に、一度も振り返ることなく、夜の帳へと消えていく二人の足音は、驚くほど軽く、そして冷たかった。
◆
夜明け前の駅舎は、潮風に晒されて鉄の匂いが充満していた。
久志と唯は、始発の茨堂陸島電鉄茨堂陸島線__通称「リク電」のホームに立っていた。
ガタガタと車体を震わせながら入線してきた旧式の車両は、まるで過去からやってきた亡霊のようだ。
足元には、数日分の着替えと厚みのある封筒が入ったバッグが二つ。それだけを携え、二人は無言で乗り込んだ。
「……これ、動くんだね」
唯が、硬いボックスシートに腰を下ろして呟く。
窓の外を流れるのは、切り立った崖と、荒れ狂う冬の海。
民家はまばらで、駅に停まるたびに、日常から切り離されていくような感覚に陥る。
「ああ。……もうすぐ、誰も乗らなくなる路線だ」
久志は、窓ガラスに映る自分の顔を無感情に見つめていた。
一ヶ月前まで、自分たちは「安倍久志」と「藤村唯」として、あの街で呼吸をしていた。
だが今、リク電の揺れに身を任せているのは、名前も行き先も持たない、ただの記号のように思える。
ふいに、久志がバッグの中から小型のビデオカメラを取り出した。
「……え、久志。それ、撮るの?」
唯が怪訝そうに首をかしげる。
久志は答えず、レンズを自分たちに向けた。
ファインダー越しに映る二人は、まるで古い映画の登場人物のように血色が悪い。
「……意味、わかんないよね」
唯が自嘲気味に笑い、カメラのレンズを見つめた。
「引っ越しの挨拶をビデオで撮るなんて。……誰に見せるのかも、決まってないのに」
久志は録画ボタンを押し、レンズの向こう側にある「いつかこれを見る誰か」に向かって、静かに口を開いた。
「……俺たちは、あの日、古木の丘で全てを終えた」
その言葉は、説明としてはあまりに不十分で、聞く者を困惑させる。
久志は表情を変えず、淡々と、どこか遠い場所のことを話すように言葉を繋いでいく。
「……このビデオが届く頃、俺たちのいた部屋には、もう何も残っていないはずだ。……リサイクルに出した荷物も、捨てた記憶も、全部誰かのものになっていく。……俺たちの名前も、もう、誰のものでもなくなる」
唯は、久志の横顔をじっと見つめていた。
カメラの赤い録画ランプが、暗い車内で心臓の鼓動のように点滅している。
「……じゃあ。さよなら」
久志が最後の一言を放つ。
その瞬間、隣の唯が「あらかじめ決めていた合図」のように、ふいとレンズから視線を逸らした。
窓の外、真っ暗な海を見つめるその横顔。
つい先程まで浮かべていた微笑みは消え、そこには震えるような孤独と、今にも泣き出しそうな「救いを求める少女」の絶望だけが張り付いていた。
迷子のような、あまりに痛々しいその表情。
それがビデオの最後、録画が切れる直前の一秒間に、意図的に、完璧なタイミングで刻み込まれた。
ピッ、という無機質な電子音が響き、録画が切れる。
暗転した画面を鏡のようにして、唯は先程までの「絶望した顔」を霧散させ、満足げに久志を見つめた。
「……ねえ、久志。今の、優くんに送るの?」
「……さあな。……届くかもしれないし、届かないかもしれない。……ただ、置いていくだけだ。……俺たちの『代わり』に」
終着駅が近づき、ブレーキの軋む音が響く。
そこは、地図の端に追いやられた、誰も降りることのない寂れた港町だった。
to be continued.




