94-12
古木の丘から戻った如月荘一〇三号室。
部屋の空気は、凪いだ海のように静まり返っていた。
数日前までの焦燥は消え、二人の瞳には、どこか現実離れした透明な輝きが宿っている。
万年床の上で、久志は唯を抱き寄せながら、天井の染みを見つめて低く呟いた。
「……なあ、唯。これで、全部終わりにしよう。何も残さず、誰の手も届かない場所へ……二人だけで行こう」
その言葉は、優しく、慈しむような響きを持っていた。
唯は久志の腕の中で、安らかな微笑みを浮かべて頷いた。
「……うん。いいよ。……もう、頑張って『生きてるふり』をするのは終わり。これからは、ずっと一緒だね」
二人は、この瞬間に「最後」を共有した。
それは激情によるものではなく、あまりに摩耗し、削り取られた末にたどり着いた、凪のような境地だった。
「……俺たちの生きていた証拠も、あいつらの記憶にある俺たちの姿も、全部綺麗にしてしまいたい。……この部屋にあるものも、全部だ」
「……ええ。……最初から、いなかったことにしょう。……お母様も、優くんも、みんなが私を探せないくらい、遠くへ……」
久志は起き上がり、棚から古びた段ボール箱を取り出した。
中には、捨てられなかった過去の残骸__幼い頃の写真、学校のプリント、優也から貰った誕生日プレゼント。
「……明日の朝、リサイクル業者を呼ぶ。使えるものは全部売って、残りはゴミとして出す。……思い出なんて、死に装束には重すぎるからな」
久志の淡々とした言葉は、この世に未練を残さないための潔癖さに聞こえる。
唯も力なく立ち上がり、自分のバッグから「藤村の家」の鍵を取り出した。
かつては彼女を縛り付ける鎖だったその鍵を、今はただの「役目を終えたモノ」として見つめている。
「……私も、近いうちに、この鍵をポストに投げ込んでくる。……もう、あそこには帰らない。……この如月荘が、私たちの最後、本当の居場所だったね」
久志がスマートフォンの画面を操作し、一つずつ、連絡先を消去していく。
「高橋優也」という名前の上で、指が止まる。 数秒の沈黙。
それは、親友との縁を断ち切る苦渋の決断に見えた。
「……明日から三日間で、全部終わらせる。公共料金の解約、口座の閉鎖。……世界から、俺たちのログを消していくんだ」
「……まるで、最初から存在しなかったみたいだね」
唯が久志の手に自分の手を重ね、スマートフォンの電源を落とした。
画面が真っ黒に沈み、そこには疲れ果てた二人の、けれどどこか神聖さすら漂う顔が、幽霊のように映り込んでいた。
二人はまだ、自分たちが「美桜吏」と同じ側の住人になったことを自覚していないふりをしていた。
消極的な逃避の形を借りながら、その実、あいつらを一生許さないための「鮮やかな復讐」が、静かに、けれど着実にその形を成していくことを。
今はただ、冷たい部屋の中で、自分たちの輪郭を削り取っていく作業だけが、二人の唯一の絆だった。
to be continued.




