93-11
墓標を立て、一輪の花を添えたその瞬間。
久志のポケットの中で、銀の懐中時計が弾かれたように熱を帯びた。
「……あ、ああっ……!」
唯が耳を塞ぎ、その場にうずくまる。
時計から溢れ出したのは、音ではない。
一千年前の「記憶の奔流」だった。
二人の視界が、一気に白濁する。
気が付くと、そこは廃墟の丘ではなく、夜の帳が下りる直前の、静謐な屋敷の一室だった。
「……美桜吏、こっちへいらっしゃい」
穏やかな声。
そこにいたのは、現代の唯によく似た面影を持つ女性__姉、与路衣だった。
彼女は震える手で、当時としては異国から伝わったばかりの、精巧な銀の懐中時計を妹の掌に載せた。
「これは、あなたの時間を守るお守り。明日、あなたが嫁ぐその先で、どうか幸せな時間だけが刻まれますように。……どんなことがあっても、あなただけは生きて、光の中を歩むのですよ」
それは、姉から妹への、祈りにも似た愛の証。
だが、その祈りは、数時間後に訪れた獣たちの哄笑によって無残に踏みにじられることになる。
一転して、視覚は赤黒い闇に染まった。
鼻を突くのは、生臭い鉄の匂いと、暗闇に蠢く男たちの濁った気配。
「……やめて、逃げて、美桜吏……っ!」
与路衣の悲鳴は、野卑な男たちの群れにかき消された。
嫁入りを控えた妹を守るため、囮となって男たちの前に立ちはだかった姉。
その尊厳が、言葉にするのも忌まわしい暴力によって、音を立てて崩れ去っていく。
その耐え難い光景が、呪いのように唯の脳内へ流れ込んできた。
泥に塗れ、未来を徹底的に損壊されていく音。
それでもなお、与路衣の瞳は、物陰に隠れる妹だけを捉えていた。
「逃げなさい、美桜吏!」
最後に聞こえたのは、肉を断つ冷たい音だった。
事切れる瞬間まで妹を案じ、ただの一度も己の苦痛を叫ばなかった姉の、地獄のような愛。
美桜吏は、喉を血の味で満たしながら走った。 たどり着いた古木の下。
「光の中へ」という姉の遺志を握りしめ、振り向こうとした瞬間、冷たい鉄の感触が背中から胸へと突き抜けた。
肺が潰れ、吐き出したのは空気ではなく黒い血の塊だった。
一千年前の深い闇の中で、美桜吏はただ一人、土の匂いと自分の血の熱さを感じながら、動かなくなった時計を抱いて冷たくなっていった。
「……ひどすぎる」
唯が涙を流し、現実の冷たい風の中で立ち尽くす。
与路衣が「生きて」と願ったその時計を握りしめたまま、美桜吏は誰にも見つけられず、一千年の闇に沈んだのだ。
久志は、震える手でその懐中時計を墓標の石の上に置いた。
金属が石に触れた瞬間、時計の針が「カチッ」と、これまでで最も大きく、乾いた音を立てた。
「……美桜吏さん」
久志の声は、これまでにないほど低く、決意に満ちていた。
一千年前、逃げることしかできず、運命に飲み込まれて死んでいった先祖。
そして、その悲劇を「血」として引き継いでしまった自分たち。
美桜吏の無念を肌で感じた久志の瞳に、暗い光が宿る。
もし、この血筋が「運命」にあるのだとしたら。
もし、普通に生きている限り、自分も、そして隣にいる唯も、いつか美桜吏や与路衣と同じように「誰かの都合」で命を散らすことになるのだとしたら。
(……俺は、繰り返さない)
久志は、美桜吏の死を「過去の出来事」としてだけではなく、自分たちへの「警告」として受け取った。
姉の与路衣が願った「光の中を歩む」という生き方。
それを実現するためには、真っ当な手段では足りない。
(死を、創るんだ。……俺たちの『死』を。そうしなければ、本当の意味で生き残ることはできない)
「久志くん……?」
唯が不安そうに、久志の横顔を見上げる。
久志は答えなかった。
ただ、一千年の時を越えて再会した姉妹の悲劇を、その瞳に焼き付けていた。
「……さあ。終わらせよう、美桜吏さん」
久志が墓標に置かれた懐中時計の竜頭に触れた瞬間、辺りの空気が凍りついた。
一千年の重みに耐えかねたように、時計の内部から「ギィ……」と、鋼鉄が軋むような、悲鳴にも似た音が響き渡る。
次の瞬間、止まっていた秒針が弾かれたように動き出した。
だが、それは未来へ進む音ではない。
カチカチカチカチ__!
猛烈な勢いでの逆回転。
一秒、一分、一年……一百年。
針が過去へと遡るたび、銀色の時計の表面はみるみるうちに輝きを失い、深い錆に覆われ、ボロボロと剥がれ落ちていく。
「あ……久志、見て!」
唯が声を上げた。
時計の崩壊と呼応するように、美桜吏の身体が内側から透き通るような光を放ち始めたのだ。
彼女をこの世に縛り付けていた「暗殺の恐怖」と「姉との未練」が、時計という依代と共に、一千年分の時間を一気に駆け抜けて霧散していく。
「……ああ、体が、あたたかい。……お姉ちゃんの、ぬくもりっ……」
美桜吏の瞳には、もはや絶望の色はなかった。
逆回転を続ける針が、ついに「運命のあの日」の時刻を指してピタリと止まった。
その瞬間__。
パリン、と。
何かの呪縛が解けたような、高く、澄んだ音が丘に響いた。
精巧な機械だったはずの懐中時計は、形を保てなくなり、細かな塵となって崩れ去った。
銀の破片さえ残さず、それはただの灰となって風に舞い、古木の根元へと消えていく。
「__ありがとう__」
光の粒子となった美桜吏が、最後に一度だけ、久志と唯に向かって深く、優しく微笑んだ。
その背後には、迎えに来た姉、与路衣の幻影が重なり、二人は手を取り合うようにして、夜空の彼方へと溶けていった。
風が止み、完全な静寂が訪れる。
丘の上には、新しく立てられた墓標と、唯が供えた一輪の花だけが、月光に照らされて残されていた。
「……これで良かったのかな?」
唯が、まだ熱の残る墓標の石をそっと撫でる。
だが、久志は答えなかった。
彼は、さっきまで時計があった場所__今はただの灰が散らばる土を、じっと見つめていた。
一千年の時を越えても、血筋という名の「宿命」は、こうも残酷に人を縛り付ける。
美桜吏は救われた。
だが、自分たちは?
(……いや、違う)
久志はゆっくりと立ち上がった。
その瞳からは、迷いが完全に消えていた。
美桜吏が消えた「無」の空間を見つめながら、彼は自分の中にある「これまでの自分」を、あの灰と一緒に捨て去ることを決めたのだ。
「……行こう、唯」
久志は一度も振り返らずに、丘を下り始めた。
その足取りは、もはや過去を追う者のものではなく、未知の空白へと踏み出す者の鋭さを持っていた。
少し遅れて歩き出した唯が、隣に並ぶ。
夜明け前の深い藍色の闇の中、久志は正面を見据えたまま、低く、重みのある声で告げた。
「……唯、話したいことがあるんだ」
唯は、その言葉の先に何があるのかを、言葉にせずとも感じ取っていた。




