92-10
「……ここから先は、もう道じゃないみたいだね」
唯の声が、不自然なほど吸い込まれていく。 「あいか」の華やかな喧騒が嘘のように、目の前に広がるのは、かつて人々が生活していた痕跡を、無慈悲な歳月が削り取った「死んだ街」だった。
傾いた電柱、蔦に絞め殺されたような民家。
久志の持つ懐中時計が、時折「チリ……」と鋭い金属音を立てて震える。
「……見て、久志」
唯が指差した先。
誰もいないはずの路地の向こうに、淡く発光する「記憶の残像」が揺らめいていた。
それは、かつての美桜吏が家族と歩いたであろう平穏な日常の断片。
着物の裾を揺らし、楽しげに語らう二人の影が、一瞬だけ重なっては、霧のように消えていく。
「あっちだ。美桜吏さんの記憶が、場所を思い出そうとしてるんだ」
久志は、震える時計の針が指す方向__街の最果てにある、小高い丘へと足を進める。
足元で乾いたガラス片が割れる音が、静寂を切り裂く。
「……ねえ、久志。なんだか、空気が冷たくないかな?」
唯が自分の腕をさする。
気温は変わっていないはずなのに、心臓の奥が冷えるような感覚。
美桜吏の「生き霊」としての密度が増しているのだ。
ふいに、美桜吏が二人の前に姿を現した。
その表情は、今までの穏やかさを失い、恐怖に強張っている。
「……ここ、この道。あの日、私はここを走っていた……。背後から、誰かが……」
彼女が指差す先、ゴーストタウンの境界線に、一本の巨大な「古木」が立っていた。
雷に打たれたのか、幹の半分が黒く焼け焦げ、残りの枝が天を突くように歪に伸びている。
その木の下に辿り着いたとき、唯は思わず足を止めた。
「……う、ううっ……」
「唯!? どうした」
「……聞こえるの。地面の下から、女の人の……ううん、子供みたいな、もっと細い、震えるような泣き声が……」
唯の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
同じ血筋を持つ彼女は、土の中に埋もれた美桜吏の「最後の絶望」が直接響いていた。
久志は唇を噛み締め、懐中時計を強く握りしめた。
時計の針は、もはや回転を止め、真下__古木の根元を指して激しく震えている。
「……ここだな。ここに、アンタの『止まった時間』がいるんだな」
久志は木の根元を覆う枯れ葉を、力任せに払い除けた。
そこには、人目を避けるように隠された、冷たい土の塊があった。
二人は、誰にも知られずに長い時もの間、闇の中に置かれていた「悲劇」と、ついに対峙することになる。
◆
「一千年……」
久志がその言葉を噛み締めるように呟いた。
目の前の古木は、もはや樹木というよりは、巨大な化石のように見えた。幾度もの雷雨に打たれ、焼かれ、それでもなお、この地に根を張り続けてきた沈黙の証人。
「そう、私は、ずっとここにいたのね。……この暗い、冷たい土の下で。季節が千回巡るのを、ただ独りで数えていた」
美桜吏の姿は、以前よりも透き通り、今にも夜風に解けてしまいそうだった。
千年前。
平安の世の片隅で、彼女は「暗殺」という卑劣な手段で、その若き命と未来を断ち切られた。
「……掘るぞ。千年も放っておけるか」
久志は、用意していた折りたたみ式のスコップを土に突き立てた。
ガチリ、と鈍い音が響く。
土は岩のように硬く、幾層にも重なった堆積物が、時間の厚みを物語っていた。
「……うう、っ……」
唯は、古木の幹に手を突き、その場に崩れ落ちそうになっていた。
彼女の耳には、もはや泣き声だけではない。
千年前の夜、この場所を埋め尽くしたであろう怒号、悲鳴、そして美桜吏が最後に感じた「鋭い痛み」が、血を通じて流れ込んでいた。
「唯、無理するな。下がってろ」
「……だめ。私が見てなきゃ。美桜吏さんの、最後の記憶を、私が……受け取らなきゃ」
「違う、俺たちが受け取るんだ」
唯は震える手で、久志と一緒に土を掻き出し始めた。
爪の間が黒く汚れ、指先から血が滲む。
それでも二人は、千年の沈黙を暴くために手を止めなかった。
やがて、土の中から「それ」が現れた。
朽ち果てた布の断片。
そして、泥にまみれながらも、月の光を反射して鈍く光る小さな「髪飾り」。
それは、一千年前の職人が丹精込めて作ったであろう、繊細な銀細工だった。
「……ああ……」
美桜吏が、その髪飾りに触れようとして、指をすり抜けさせた。
実体を持たない彼女の代わりに、久志がそれを拾い上げる。
「……ここにあったんだ。アンタの……生きた証拠」
久志は、周囲の石を集め、古木の根元に丁寧な盛り土をした。即席ではあるが、それは千年間、誰も彼女に与えなかった「墓標」だった。
唯は震える手で、道中に摘んできた一輪の花をその上に添えた。
千年前の闇を、現代の「生」の色が、ほんの少しだけ照らす。
「……私を見つけてくれて、ありがとう」
美桜吏の瞳から、光の粒のような涙が溢れた。
だが、まだ終わらない。
久志のポケットの中で、銀の懐中時計が、これまでにないほど激しく、狂ったようなリズムで鳴り響き始めた。
それは、彼女をこの世に繋ぎ止めている「未練の正体」__姉との約束が、最後の叫びを上げている合図だった。
to be continued.




