91-09
朝の光は、いつも通り無機質に洗面所に差し込んでいた。
唯は眠気を追い払うように冷たい水で顔を洗う。
指先から伝わる水の冷たさが、現実と夢の境界をなぞるようだった。
タオルで顔を拭い、ふと鏡を見上げた時__心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……え?」
鏡の中に映っているのは、自分のはずだった。
しかし、その背後に、あるいは自分自身の輪郭をなぞるように、「別の誰か」が重なっている。
それは、時代から取り残されたような、しとやかな装いの女性だった。
伏せられた睫毛が震え、その瞳には底知れない哀愁と、助けを求めるような切実な光が宿っている。
「……見つけて」
耳に届く声ではない。
自分の内側、それこそ心臓を流れる血が直接震えるような、低く、透き通った声だった。
「唯? その顔は、どうした」
背後から声をかけられ、唯は弾かれたように振り返る。
そこには、いつものように支度を整えた久志が立っていた。
もう一度鏡を見ると、そこにはただ困惑した自分の顔があるだけだった。
「……ううん、なんでもない。ちょっと立ちくらみしただけ」
唯は誤魔化すように笑ったが、その指先はまだ微かに震えていた。
久志は怪訝そうに唯を見つめていたが、やがて視線を落とし、上着のポケットに手を伸ばした。
そこには、彼がずっと預かっていた「銀の懐中時計」がある。
「……こいつも、今朝から妙なんだ」
久志が取り出した時計は、動いていないはずなのに、時折カチ……と不規則な音を立てていた。
それはまるで、何かに怯える者の鼓動のようでもあり、遠い場所から送られる合図のようでもあった。
二人は言葉を交わさずとも、同じ予感に囚われていた。
自分たちの血の中に眠る「過去」が、ついにその沈黙を破り、何かを訴え始めている。
「私を見つけて……同じ血が流れる、あなたたちだけが頼りなの」
再び響いたその声に、二人は顔を見合わせる。
それは、凄惨な「暗殺」という運命に絡め取られ、自分の死場所さえ見失った一人の女性__天多美桜吏からの、時を超えた救難信号だった。
「……行くか」
久志の短い言葉に、唯は深く頷いた。
鏡の向こう側から手を伸ばしてきた彼女を、自分たちの代で終わらせるために。
二人は、地図にも載っていない、失われた記憶の場所へと足を踏み出す。
◆
車窓を流れる景色が、次第に色を失っていく。
藍華の街の境界線を越え、かつて炭鉱や交易で栄えたという「ゴーストタウン」の入り口に、二人は立っていた。
「……ここなの?」
唯の声が、乾いた風にさらわれる。
目の前には、立ち枯れた街並みが広がっていた。
蔦に覆われたコンクリートの塊と、割れた窓ガラス。
そこには、誰にも思い出されることのない静寂だけが積もっている。
「ああ。こいつが、ずっとこっちを指してる」
久志がポケットから取り出した銀の懐中時計。
動かないはずの秒針が、まるで磁石に吸い寄せられるように、街の奥__北の丘を指して震えていた。
その時、二人の視界がふっと歪む。
陽炎のように現れたのは、鏡の中にいたあの女性、美桜吏だった。
「ごめんなさい……こんな場所まで」
彼女は、自分の透けるような指先を見つめて、悲しげに微笑んだ。
実体を持たないはずの彼女の周囲には、かすかに「暗殺」の際のものだろうか、焦げた匂いと鉄の香りが漂っている。
「……美桜吏さん。自分がどうなったか、理解しているんだ」
久志の問いに、美桜吏は静かに頷いた。
「ええ。ある夜、背後から。……冷たい刃の感触と、姉様の叫び声だけが、私の最後の記憶。でも、自分がどこで果てたのか、誰の手で埋められたのか、それだけが霧に包まれて……」
彼女は、自分自身の死を理解しながらも、その「終着点」を見失ったまま彷徨う、迷子のような存在だった。
同じ血筋を辿り、久志と唯を頼ったのは、血縁という名の「道標」だけが、彼女を暗闇から救い出せる唯一の紐だった。
「私たちの血には、消えない『刻印』がある。……幸せになることを許されなかった者の、強い未練。それが、あなたたちと繋がりを作っていたのかもしれない」
美桜吏の言葉に、久志は隣に立つ唯を強く引き寄せた。
血筋というものが、逃れられない悲劇を繰り返す「呪い」なのだとしたら__。
「『刻印』それを呪いなんて、言わせない」
久志の低い声が、廃墟の静寂を切り裂く。
「アンタが俺たちと繋がった。それが血のせいだと言うなら……俺はそれを、あんたを助けるための『縁』だと思いたい。……な、唯」
唯は、久志の手に自分の手を重ね、力強く頷いた。
自分たちもまた、誰にも言えない秘密を抱えて生きている。
だからこそ、美桜吏の孤独が他人事とは思えなかった。
「……ありがとう。その懐中時計が、導いてくれるはずです」
美桜吏の姿が、風に溶けるように薄くなる。
久志は、震えを止めた懐中時計を強く握りしめ、ゴーストタウンのさらに奥、時間の止まった丘へと歩き出した。
二人の足跡だけが、真っ白な灰のような土の上に刻まれていく。
to be continued.




