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Separate Memory 〜美しい地獄で生きる。その為に世界を見捨てた。〜  作者: 水瀬輝夜
-美しくも醜い祈り-

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90-08

如月荘一○三号室。

西日の差し込む六畳間に、二人の荷物が詰められた段ボールがいくつか置かれている。

かつては二人の「城」だったこの場所も、今はもう、ただの空っぽの箱になろうとしていた。

唯が震える手で、茶封筒を差し出す。


「ごめんね、今の待ち合わせは……これだけ」


中には、数千円の現金が入っている。

久志はその重みを受け取り、喉の奥で詰まったような声を絞り出した。


「いや、十分だよ……情けないよな、俺……」


久志の視線が、畳のささくれに落ちる。

守るべき相手に金を用意させ、共に死へ向かおうとしている。

その不甲斐なさが、彼の心を鋭利なナイフで削っていた。

しかし、唯は穏やかに首を振った。

その瞳には、一点の迷いもない。


「そんなことないよ。私の愛する人は、お金よりも大切なモノを持ってるんだよ」


その言葉は、久志にとっての救いであり、同時に「この光を消さねばならない」という呪いでもあった。


「……ありがとう、唯。また後で」

「うん。また後で」


二人は一瞬だけ、強く抱きしめ合った。

これが、生きた人間として触れ合う最後になるかもしれないという予感。

先に唯が部屋を出ていく。

バタン、とドアが閉まる音。

それが久志には、世界が自分たちを放り出した音に聞こえた。


久志は一人残された部屋で、しばらく立ち尽くした後、近くの大型ホームセンターへ向かった。

春の園芸フェアで賑わう店内。

幸せそうな日常の喧騒を通り抜け、久志は資材コーナーで目的のものをカゴに入れていく。

大きなボストンバッグ。

ナイロン製の縄。

作業用ハサミ。

カゴの中で、縄の束が重い音を立てた。

その感触に吐き気を覚え、足早にレジへ向かおうとした時__見覚えのある後ろ姿が視界に入り、久志は咄嗟に商品棚の陰に身を隠した。

数メートル先、生活用品のレジに並んでいたのは、優也と和翠だった。

二人は仲睦まじく、新生活に使うのであろう明るい色の収納ボックスを抱えている。


「あーあ、結局これにしたけど、久志たちの部屋にも合いそうだよな」


優也が何気なく口にした名前に、久志は息を止めた。


「……あの二人、また付き合っちゃえばいいのにな。二人は従姉弟同士だったんだって、今の時代どうとでもなるだろ?」


優也の言葉に、和翠が慈しむような笑顔で応える。


「ええ、本当にお似合いですもの。あんなに想い合ってる二人、他にいないですよ」

「だよなあ。あいつら、見ててじれったいっていうかさ。……本当なんで付き合ってないんだって思うよ」

「ふふふっ、優也、久志くん達に世話焼きすぎですよ。嫉妬しちゃいますよ?」


二人は顔を見合わせ、幸せそうに笑った。

その無邪気な善意。

自分たちの未来を信じて疑わない言葉。

それが今の久志には、どんな罵倒よりも深く、鋭く突き刺さる。


「……お似合い、か」


久志はカゴの中の「縄」を、隠すように強く握りしめた。

お似合いなのは、自分たちにはもう、この暗い海の底しか残されていないことだ。

二人がレジを済ませ、光の差す出口の方へと歩いていく。

その背中を、久志は泥棒のように、息を潜めて見送った。


「五千六百四十円になります」


事務的な店員の声。

久志は唯から預かった封筒から、千円札を数枚出した。

あいつらが選んでいた「未来」の道具。

自分が選んだ「終わり」の道具。

レジの合計金額は、二つの世界の断絶を冷酷に告げていた。

ホームセンターを出ると、日はすでに傾き始めていた。

ボストンバッグを肩にかけ、久志は一人、約束の場所へと向かう。

もう、空っぽの封筒と、死の道具しかない。

でも、それでいい。

これ以上、あんなに眩しい人たちのいる世界に、持ち込めるものなんて何一つなかったのだから。



銀行のロビーには、静謐な空気が流れていた。

唯は窓口の硬い椅子に腰を下ろし、背筋を完璧に伸ばしている。

その姿は、名家、藤村家の令嬢そのものであり、誰も彼女がこのあと「死」に向かうとは夢にも思わないだろう。


「……はい。確かに、全額解約で承りました」


窓口の職員が、丁寧な手つきで書類を確認する。

唯が下ろそうとしているのは、藤村家から「お行儀よくしているための手入れ金」として与えられてきた、彼女を縛るための飼育料だ。


「これほどまとまった額を、解約までして引き出されるのは……何か不都合でもございましたか?」


職員の探るような問いに、唯は淀みなく、冷ややかなほど美しい微笑みを返した。


「いいえ。ただ、友人の勤める銀行にすべて移すことにしただけですので」

「さようでございましたか。それは……私どもとしては非常に残念ですが」

「解約するのは私個人の口座だけですから。実家の方は、今後も変わりありません」


その言葉に、職員の表情からわずかな緊張が消えた。

藤村家という太い顧客を失うわけではないと確信し、安堵の笑みが浮かぶ。


「承知いたしました。ご両親に投げ出されたわけではありませんものね……。長い間のご利用、誠にありがとうございました。藤村唯様」


「藤村唯」という名前に、わずかな吐き気を覚えながらも、唯は優雅に会釈した。

重い、あまりに重い数百万の現金。

それを大きなカバンに詰め込み、彼女は銀行を後にする。


自動ドアが開くと、外の温い風が唯の頬をなでた。

カバンの中にあるのは、自分の命を買い取るための代金。

これさえあれば、久志と二人、人知れず消えることができる。


(これでいい。このお金で、私は藤村唯を殺して、ただの『唯』になれる)


そう自分に言い聞かせ、前を向いた瞬間だった。


「あ……唯ちゃん?」


聞き覚えのある声に、唯の心臓が鋭く脈打った。 顔を上げると、そこにはそら弥生やよいが立っていた。


「……天ちゃん、弥生ちゃん」


唯は一瞬で「藤村唯」の仮面を完璧に被り直す。

口角を数ミリ上げ、優雅に会釈する。

訓練された動作が、今の自分にはひどく虚しい。

しかし、腕に下がるカバンの重みが、彼女の裏切りを静かに主張しているようだった。


「これから一緒にお茶でもどうですか?ちょうど雰囲気のいいカフェを見つけたのです」

「一緒に行きましょう」


天の礼儀正しさと弥生の無邪気な問いかけが、唯の逃げ道を塞ぐように響いた。


「ごめんなさい。母に呼ばれてこれから実家に戻らなくてはならなくて……」


(嘘。もう二度と、あの家になんて戻らない。お母様にも、二度と会わない)


心の中で吐き捨てながら、もっともらしい理由で誘いを断る。


「そうですか、唯さんもお忙しいんですね。それではまた機会がありましたら」


天の屈託のない笑顔が痛い。

「また今度」なんて言葉、今の私に言わないで。

その言葉に応えられない罪悪感で、喉の奥が熱くなる。


二人と別れ、逃げるように角を曲がったところで、今度は桜と鉢合わせる。

彼女は立ち止まり、じっと私の顔を覗き込んだ。


「……唯さん? なんか顔色悪いよ。大丈夫? 悩み事なら聞くよ?」


桜の瞳は、いつも鋭くて優しい。

嘘を見透かされそうで、私は思わずカバンを強く握りしめた。


「桜ちゃん、ありがとう大丈夫よ、ちょっと寝不足なだけだから心配しないで」

「……そう? 無理しちゃダメだよ。私は、いつでも味方なんだから」


(味方……。私がこれからしようとしていることを知っても、そう言ってくれるの?)


「ありがとう。……じゃあ、私はこれで」


知り合いにさえ嘘を塗り重ね、背を向ける。

一歩歩くごとに、自分という人間がこの世界から削り取られていくような感覚。


ようやく駅へ向かおうとした夕暮れの交差点。

追い打ちをかけるように、向こうからホームセンターの大きな袋を提げた優也と和翠が歩いてきた。


「あ、唯! さっきホームセンターで久志を見かけたよ。あいつも変な荷物抱えて急いでたけど、二人は引っ越し準備か?」


優也の無邪気な言葉に、全身の血が引いていく。


(……久志が見られてた?)


久志くん、あんなに慎重な人が……。

何を買っていたのか、何を見られたのか。

喉の奥がヒュッと冷たくなる。

優也くんの無邪気な笑顔が、今は自分たちを追い詰める執行官の笑顔に見える。


「ええ……そうなの。片付けが、少し大変で。久志は、せっかちだから……」


笑い返した自分の顔が、ひどく引きつっているのが分かった。


「そうか、あんまり無理すんなよな!手伝えることがあったら言ってくれ」

「ええ、お二人なら、どんな場所でも幸せになれますよ」


和翠の穏やかな祝福が、呪いのように胸に突き刺さる。

幸せになれる場所なんて、もうこの世界のどこにもないから、私たちは終わらせるのに。


「……ありがとう。優くん、和翠さん。元気でね」


(さようなら。今まで、私を人間として扱ってくれて、本当にありがとう。久志くん。早く、早く会いたい。この世界が私たちを捕まえに来る前に)


「元気でね」という言葉に込めた、遺言のような響きに二人が気づくことはない。

二人の笑い声を背中で聞きながら、唯は重いカバンを抱えて歩き出す。

空には、燃えるような夕焼け。

この光が消える頃、私は「藤村唯」としてのすべてを捨てて、久志の待つ場所へ。

もう、嘘をつく必要のない、暗い海の底へ。



夕闇に溶けかかった如月荘。

一〇三号室のドアを開けると、そこにはすでに「死の準備」を終えた久志が待っていた。

部屋の隅には、ホームセンターで買ってきたばかりの黒いボストンバッグが、重苦しく鎮座している。


「遅かったな。……何かあったのか?」


久志が、どこか張り詰めた声で問いかける。

唯は抱えていた重いカバンを畳に置き、乱れた呼吸を整えながら彼を見つめた。


「……ホームセンターで、優くんに見られてたみたい」

「っ、なんだって……?」


久志の顔が、一瞬で強張る。

隠れきったつもりだった。

あの幸せそうな光の中に、自分たちの「死の気配」が混じることだけは避けたかった。


「……だからと言って、もう引き返せないぞ。俺は、もう……」

「分かってる。ちゃんと引っ越しの準備だって誤魔化したから、大丈夫だよ、久志」


唯は一歩歩み寄り、震える久志の手をそっと包み込んだ。


「優くんも、和翠さんも……私たちのこと、どんな場所でも幸せになれるって。……皮肉だよね」


その言葉に、久志は自嘲気味に笑い、力なく首を振った。


「そうか。……ありがとう、唯。お前にまで、そんな嘘を吐かせて……」

「いいの。藤村唯として吐く、最後の嘘だよ。……ねえ、久志」


唯が、久志の胸に顔を埋める。

もうすぐ、すべてが終わる。

数時間後には、冷たい断崖の風に吹かれ、この体温も、この心臓の音も、永遠に失われてしまう。


「これが最後だから、……『久志』と『唯』でいさせて」


久志は何も答えず、ただ壊れ物を扱うように唯を強く抱きしめた。

畳の上に投げ出された、数百万の現金が入ったカバン。

その横にある、二人を縛るための黒い縄。

生への執着を象徴する金と、死への招待状である道具。

その矛盾に満ちた静寂の中で、二人は重なり合う

明日を語らない、最後の逢瀬。

互いの肌に刻みつけるような、痛切な愛撫。

流れる涙も、絡み合う指先も、すべて泡のように消える。

今、この瞬間だけ。

二人は世界から完全に切り離され、ただの一組の男女として、溶け合っていった。



重なり合った後の部屋は、ひどく静かだった。

開いた窓から忍び込む夜気が、汗ばんだ肌を容赦なく冷やしていく。

遠くで聞こえる深夜、誰かが家路を急ぐ足音。

そんな「日常」の響きが、自分たちを拒絶するように遠く感じられた。

肌を刺すような冷たい空気が、絡み合った指先だけがまだ生きていることを証明していた。

久志は、腕の中にいる唯の背中に顔を埋めた。

トク、トク、と伝わってくる規則正しい鼓動。

これが最後の体温だと知っている。

この温かさを、この命の刻みを、数時間後には自分の手で止めるのだという事実が、重く、鋭く、久志の胸に刻印を穿っていく。


(ごめんな、唯。……こんなことしか、してやれなくて)


言葉にできない謝罪は、彼女の肌に触れる指先に込めるしかなかった。

唯もまた、久志の首筋に深く顔を寄せ、その匂いを、その熱を、魂の奥底まで飲み込もうとするかのように目を閉じていた。


「……ねえ、久志」


暗闇の中で、唯が鈴を転がすような声で囁いた。

久志は彼女の肩を抱き寄せ、静かに応える。


「ごめん、起こしちゃったか?」

「ううん、違うよ」


唯は何かを確かめるように、久志の胸の鼓動に耳を澄ませ、言葉を探した。

そして、意を決したように小さな唇を開く。


「どうした?」

「今、私……世界で一番、幸せ、だよ」


心中を目前にした少女の言葉とは思えない、透き通った声。

その純粋な響きに、久志は鼻の奥がツンと熱くなるのを感じた。


「……そうか。俺もだよ、唯」


もう、未練はない。

優也たちが無邪気に話していた「未来」も、桜が心配してくれた「明日」も、今の二人にはもう、何の意味もなさない。

この六畳間の静寂こそが、彼らに許された唯一の真実だった。


「まだ時間あるから……一緒に眠ろう」

「うん、おやすみなさい、久志」

「ああ、おやすみ、唯」


二人は重なり合うようにして、深い眠りにつく。

それは、この世で交わす最後で、最も安らかな約束だった。

部屋の隅に置かれた、黒いボストンバッグ。

その中にある、二人を繋ぎ止めるための縄と、冷たく光る作業用ハサミ。

そして、唯が「藤村唯」という仮面を捨てて用意した、数百万の現金。


そこが、彼らにとっての――本当の「始まり」になるはずだった。


to be continued.

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