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Separate Memory 〜美しい地獄で生きる。その為に世界を見捨てた。〜  作者: 水瀬輝夜
-美しくも醜い祈り-

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89-07

湿ったクロスの匂いと、安っぽい洗剤の混じった、

如月荘、特有の重苦しい空気。

窓の外で遠く鳴り響く救急車のサイレンを、二人は縋るような静寂の中で聞いていた。

久志は、万年床の上で唯の身体を組み伏せていた。

服を剥ぎ取る手つきには、愛おしさよりも、外の世界で磨り減らした自分自身を埋め合わせようとする飢餓感が滲む。


「……疲れた。もう、限界かもしれない」


久志が、唯の鎖骨に顔を埋めたまま、低く濁った声で零した。

彼にとっての外の世界は、ただ「まともな人間」のふりをして日銭を稼ぐための、苦痛に満ちた演劇の舞台でしかない。


「私も……藤村の家に戻るたび、自分の骨がひとつずつが冷たいプラスチックに変わっていくみたい……ねえ、この身体をもっと、強い偽物の身体を、壊して」


唯が、久志の背中に爪を立てた。

彼女は大学へは行かず、家の中で「お行儀のいい娘」を演じている。

幼馴染である優也が、恋人の和翠を連れて時折訪ねてくるたび、彼女は透明な壁の向こう側からその眩しさを眺めることしかできない。


「昨日、優くんが和翠さんを連れて家に来たの。……二人がリビングで、大学の講義の話や、将来の同棲の約束を楽しそうに話しているのを、私はキッチンでコーヒーを淹れながら聞いていた。和翠さんが『唯ちゃんも、今度大学の学祭に遊びに来てね』なんて、無邪気に笑って……それを『ありがとうございます、楽しみにしていますね』って微笑んで返す自分の顔。それが自分でも怖かった。……薄気味悪いほど、完璧な『幼馴染』を演じてた。もう

あの場所に、私の居場所なんてないのに」


久志は答えず、唯の首筋に深く歯を立てた。

痛みに身体を跳ねさせ、短い悲鳴を上げる唯の反応だけが、この部屋で唯一、彼が支配できる「真実」だった。


「……『親友』のふりをするのも、もう疲れた」


久志の手が、唯の柔らかな肌を乱暴に這う。

優也たちが謳歌する、祝福された清潔な愛撫とは無縁の、隠微で重い接触。


「バイト、辞めようと思ってる」

「……え?」

「親友のふりをして優也に会うたび、あいつが『いつか和翠を幸せにするため』に必死で働いている話を聞かされる……吐き気がするんだ。あいつ、善意の塊みたいな顔で言うんだよ。『久志も、唯を大切にしてやれよ』って。……あいつの言う『大切』の中に、俺たちが今、こうして重なり合っている地獄なんて、欠片も思ってない。あいつは何も知らない。何も見ようともしない」


久志は、唯のブラウスを乱暴に押し上げ、剥き出しになった胸元に顔を押し当てた。

絶望を共有する者同士の、共食いのような逢瀬。


「俺が稼いだ金で買えるのは、せいぜいこの部屋の更新料……俺たちが世間から隠れるための『穴ぐら』の代金だけ。そんなモノのために、毎日ゴミを見るような客に愛想笑いをして、馬鹿馬鹿しくてなってくる。……あいつらの信じる『努力』も『幸福』も、俺たちのような不純物を排除して成り立ってんだな」

「辞めても……いいよ、久志」


唯が、久志の首に腕を回し、腰を引き寄せた。

密着した肌から伝わる拍動が、冷え切った沈黙を激しくかき乱していく。


「お金なら、私がなんとかする。……お母様から渡される『お行儀よくしているための手入れ金』が、まだあるから。それで、この部屋だけでも守れるわ。……ねえ、久志、私を見て。私はここにいる。あんな明るい場所にはいない。あなたの腕の中にしかいないの」


久志は唯の脚を割り、その内側に深く沈み込んだ。

結合の衝撃に唯がのけぞり、久志の肩に噛みつく。


「……悪いな。……情けないだろ。何一つあいつらに勝てないんだ。学歴も、金も、未来も。……あるのは、この、呪われた血だけだ」

「それが一番、重くて確かなものじゃない。……他には、何もいらない」


二人は、喉の奥まで探り合うような、渇いた口づけを交わした。

身体を激しく揺らしながら、お互いの絶望を確認し合う。

汗ばんだ肌が粘り気を持って吸い付き、畳が軋む音が、彼らの唯一の賛美歌となった。


「ねえ、久志。……これから、私たちはどうすればいい? ……どうすれば、私たちは『私たち』に戻れるの? ……このまま、ただ光に焼かれて消えていくのを待つの?」


久志は唯を突き上げながら、その瞳をじっと見つめた。

その眼差しは、暗い井戸の底のように深く、濁っている。


「世界を壊すか、自分たちを壊すか……。二つに一つだ。……なあ、唯。俺はもう、あいつらに蔑まれる『友人』でいるのは嫌だ。あいつらが一番守りたいものを、この手で汚してやりたい」

「……優くんのこと?」

「ああ。優也も、和翠先輩も、あいつらを温かく見守る親たちも……。あいつらが信じている『テンプレートな幸福』も、俺たちを汚物みたいに排除しようとしてるなら……俺はその『正しさ』を、全部この泥沼に引きずり込んでやりたい。全部、俺たちと同じ匂いにしてやりたい」


久志の動きは、次第に激しさを増し、唯を追い詰めていく。

それは愛というより、互いの存在を唯一の武器にするための、必死な合意だった。

唯は久志の背中に爪を立て、皮膚を裂くような痛みに、自分が生きている実感を求めた。


「……私は、久志と一緒なら、どこへだって落ちていける。大学なんて行かなくたって、誰に認められなくたって、この汚い部屋が私たちの世界のすべてなら、それでいい」

「……ああ。……分かってる。……なあ、唯。もし、あいつらが絶望して、俺たちと同じ側に落ちてきたら……その時、初めてあいつらと対等になれる。あいつらの輝きが消えて、ただの肉塊になった時に!」


二人の身体が激しくぶつかり合い、やがて一つに溶けていく。

それは祝福される未来を求めるものではなく、暗い底で共に溺れ、共に息を止めるための、背徳の結末。


「これからは、もっと『上手く』やろう。……優也の『親友』と、その『幼馴染』を完璧に演じ続けながら、その影を少しずつ、奴らの心臓まで広げていくんだ。俺たちの偽物の笑顔を、あいつらの本当の絶望に変えてやるまで」

「……ええ。……彼らが一番幸せな瞬間に、すべてを失う贅沢を、私たちが教えてあげなくちゃ」


果てる瞬間に唯の唇から漏れた言葉は、蜂蜜のように甘く、けれど致死量の毒を含んでいた。


如月荘の薄い壁越しに、冷たい夜風がひゅうと鳴っていた。


to be continued.

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