87-05
大学のキャンパスは、春特有の浮ついた空気と、新学期の緊張感が混ざり合っていた。
講義室の窓から差し込む午後の光は、宙に舞う埃さえも白く輝かせ、世界の「正しさ」を象徴しているかのようだった。
蒼、天、弥生の三人は、階段教室の中段で真面目にノートを取っていた。
教授の低く単調な声が、法学の難解な条文を読み上げていく。
そのリズムは、昼下がりの温かな空気と相まって、抗いがたい眠気を誘う子守歌のようでもあった。
蒼は手元でシャーペンを走らせながらも、ふと隣の気配に視線を落とした。
そこには、普段の鋭い知性派の面影を失い、眼鏡の奥で必死に瞼を震わせる弥生の姿があった。
「……ん、……っ」
弥生の頭が、カクンと大きく前に揺れる。
ハッとして顔を上げるものの、数秒後にはまた、教授の単調な低音に引きずり込まれるように、カク、カクと不自然なリズムで頭を揺らしていた。
眼鏡が鼻先までずり落ち、今にも机に突っ伏しそうな危うさだ。
そんな弥生を挟んで反対側に座る天は、真剣な眼差しで黒板を見つめ、几帳面な字で要点を整理している。
蒼は、天の完璧な「優等生」ぶりと、隣で必死に睡魔と戦う弥生のギャップに、思わず口元を緩めた。
(……弥生、限界だな)
蒼が小さく苦笑いし、消しゴムの角で弥生の腕を軽く突くと、彼女は「ひゃいっ!」と声にならない声を漏らして飛び起きた。
ずり落ちた眼鏡を慌てて指で押し上げ、何事もなかったかのように参考書を捲る音が、静かな教室にパラパラと響く。
彼らにとって、この「学び」の時間は、将来という名の真っ当なレールを走り続けるための、必要な儀式だった。
たとえ時折、睡魔という小さな綻びが混じったとしても。
やがて講義終了のチャイムが鳴ると、教室内には一気に解放感が広がった。
「……ふぅ、今回の講義、結構重かったね。……弥生、大丈夫だった?」
天が小さく伸びをしてノートを閉じ、心配そうに弥生を覗き込んだ。
弥生はまだ少しぼんやりとした目で、手元の白紙に近いノートを見つめている。
「……ええ、問題ないわ。ただ、教授の声が少し……低周波治療器みたいだっただけよ」
強がってみせる弥生に、蒼が少し照れくさそうに笑いながら、自分のノートを差し出した。
「ほら、抜けてるとこ写せよ。蒼は相変わらず真面目だね、って弥生が言うから、気合入れて書いといた」
「……助かるわ。貸しにしておくわね」
三人は連れ立って講義室を出ると、談話スペースへと向かった。
窓の外にはテニスサークルの勧誘や、談笑する学生たちの姿。
「ねえ、今日の学食、何にする?」
「天が決めていいよ。俺はなんでも食べるし。弥生は、まずカフェイン摂取か?」
「失礼ね。……でも、濃いめのブラックをお願いするわ」
そんな、どこにでもある「大学生の日常」を、彼らは疑いもなく享受していた。
◆
学食は、ピークを過ぎてもなお、熱気と活気に包まれていた。 スパイシーなカレーの匂い、麺を啜る音、プラスチックのトレーがテーブルにぶつかる乾いた音。
それらが混ざり合い、キャンパス特有の生命力となって空間を満たしている。
「……あ、あそこ空いてるんじゃない?」
天が指差した先を追って、蒼と弥生が視線を巡らせる。
その時、窓際の特等席__春の柔らかな光がサンサンと降り注ぐテーブルに、一際鮮やかな空気を纏った男女の姿が目に飛び込んできた。
「あ、優也さんと和翠さんだ」
天の声が、無意識に弾む。
そこには、学内でも「理想のカップル」として誰もが認める優也と和翠が、まるで映画のワンシーンのように向かい合って座っていた。
「よお、お前ら! 講義終わりか?」
優也がいち早く気づき、スプーンを持ったまま屈託のない笑顔で大きく手を振った。
彼の周りだけ、まるで照明が一段明るくなったかのような錯覚を覚える。
その隣で、和翠もまた、上品にまとめられた髪を揺らして小さく会釈した。
「お疲れ様です、優也くん。和翠さんも」
「お疲れ様。皆さんも、これからお昼? 今日は日替わりがもう売り切れそうだったから、急いだほうがいいわよ」
和翠の声は、騒がしい学食の中でも不思議と澄んで響いた。
彼女が優也に向ける眼差しは慈愛に満ちていて、それでいて揺るぎない。
二人の間には、積み重ねられた信頼と月日が自然と透けて見えた。
「和翠さんのアドバイスは絶対だな。……よし、俺はB定食に走るわ」
蒼が少し照れくさそうに笑いながら応える。
優也は「おう、しっかり食えよ!」と快活に笑い、再び和翠との和やかな会話に戻っていく。
二人の様子は、決して見せびらかしているわけではない。
ただ、そこに存在しているだけで、周囲に「幸せとはこういうものだ」という一つの形を提示しているようだった。
「……なんか、あのお二人を見てると、こっちまで元気が出るよね」
天がポツリと呟く。
「そうね。……あんな風に、自然体で誰からも応援される関係って、やっぱり素敵だわ」
弥生も、眼鏡を指で押し上げながら、少しだけ羨望の混じった溜息を漏らした。
三人は軽く会釈をして二人の席を後にし、少し離れた、けれどまだ彼らの幸福なオーラが届く範囲のテーブルに落ち着いた。
自分たちが今感じている「心地よさ」を噛み締めながら、三人はそれぞれのトレーを運び、賑やかな昼食の時間を楽しみ始めた。
to be continued.




