86-04
重厚な玄関ドアが、吸い込まれるように閉まる。
この家には、生活の匂いがない。
あるのは冷徹なまでに管理された、無菌室のような静寂だけ。
「……ただいま戻りました」
唯の声は、感情を削ぎ落としたクリスタルのようだった。
「あら、唯。随分と遅かったのね。夕食の時間はとうに過ぎているわよ」
リビングのソファで輸入雑誌をめくっていた養母が、顔を上げた。
その視線は娘の無事を確認するものではなく、ショールームの展示品に指紋がついていないかを点検する、冷淡なオーナーのそれだった。
「すみません。優くんたちの話が長引いてしまって。……お夕飯は、ハイランドで済ませてきました」
「ハイランド? ……あんな騒がしい場所。藤村の娘が安っぽい店に出入りするのは、感心しないわね。お父様が聞いたらお嘆きになるわよ」
養母は、不快そうに眉をひそめる。
彼女にとって「藤村」という看板を汚すことは、何よりも許しがたい大罪だった。
「それから、例の……『幼馴染』の彼とも一緒だったのでしょう?」
母親が、あえて久志の名前を呼ばず「幼馴染」という記号で彼を指した瞬間、唯の指先がかすかに震えた。
自分たちが血の繋がった姉弟であることを、この女は知っている。
知っていて、それを「無かったこと」にするために、唯をこの清潔な檻に閉じ込め、毎日、偽物の名前で呼び続けている。
「……はい。久志くんも一緒でした。和翠さんも、とても楽しそうになさっていました」
「そう。和翠さん……。あの方は本当に素晴らしいお嬢様だわ。あなたも、あの方のような『正しい』振る舞いを学びなさい。あの方と一緒にいることで、あなたの……その、育ちの根っこにある『雑草のようなたくましさ』が、少しでも洗練されることを願っているわ」
「雑草」。
それは、唯がこの家に来る前の人生__「安倍久志の姉」であった時間を指す、この家独自の蔑称だった。
養父母は、唯を救い出した聖者を気取りながら、その実、彼女の血筋を心の底から汚物のように忌み嫌っている。
「……はい。肝に銘じておきます、お母様」
唯は、鏡で練習した通りの、隙のない微笑みを浮かべた。
内側では、胃液が逆流するような吐き気が渦巻いているというのに。
「よろしい。……さあ、早く着替えていらっしゃい。そんな安物のファミレスの匂いを、いつまでもこの家に漂わせないで。不潔だわ」
「不潔」。
その一言が、唯の鼓膜を鋭く刺した。
彼女は一礼し、音を立てずに階段を上がった。
一歩、階段を上るたびに、足元から体温が奪われていく。
自室に入り、鍵をかけた瞬間、唯は崩れ落ちるようにドレッサーの前へと座り込んだ。
(……昔は、こんなんじゃなかった。もっと、もっと自由だった。あたたかかったのに)
目を閉じれば、まだ名字が同じだった頃の、狭くて埃っぽいリビングが浮かぶ。
久志と二人で、半分こにした安物のアイス。
お互いの心音を聞きながら、一つの毛布にくるまって眠った夜。
そこには世間体も清潔さもなかったけれど、ただ「二人でいればいい」という、絶対的な肯定だけがあった。
(どうして……私が好きになった人が、血が繋がった人だから? ……たったそれだけのことなのに。それが、そんなに『不潔』なことなの?)
唯は、震える指でブラウスのボタンを外し、肩を露わにした。
そこには、さっき久志がつけた痣が、沈む夕日のような色で浮かび上がっている。
彼女はその痣を、なぞるのではなく、親指で強く押し潰した。
「……っ」
鋭い痛みが走り、視界が一瞬白む。
けれど、この痛みが、この冷え切った藤村家の中で唯一、自分が生きていることを、そして「久志の姉」であることを証明してくれる熱だった。
(それがダメだったの? 私たちが、お互いを必要としたことが、そんなに許されない罪だったの?)
鏡の中の「藤村唯」が、自分を嘲笑っている。
(いいよ、久志。……みんなが私たちを『無かったこと』にするなら、私たちも、この世界を『無かったこと』にしよう。……ねえ、久志。和翠さんが言った『深い繋がり』なんて、あんなに生易しいものじゃないよね。……私たちは、もっとずっと、救いようのない場所で繋がっているんだから)
唯は、ドレッサーの上に置かれた、養母が買い与えた高価な香水の瓶を、床に叩きつけた。
割れたガラスの音。
飛び散る、甘ったるい香りの液体。
けれど、この分厚い絨毯と堅牢な壁は、その悲鳴さえリビングには届かない。
「……早く、あの場所へ帰りたい。私たちの、本当の地獄へ」
唯は、暗闇の中で痣を抱きしめたまま、静かに、けれど確実に、自分の中に潜む猛毒を育てていた。
to be continued.




