85-03
「ただいま」
玄関を開けると、鼻を突く安っぽい芳香剤の匂いが出迎えた。
リビングからは、中身のないバラエティ番組の笑い声が垂れ流されている。
かつて、唯もこの廊下を歩き、この空気を吸っていたはずなのに、今のこの家には彼女の欠片すら残っていない。
「おかえり。遅かったわね、優也くんたちと何食べてたの?」
台所から母親が顔を出した。
その表情には何の曇りもなく、ただ日常のルーチンとしての問いかけがあるだけだ。
「……ハイランドでハンバーグ。普通だよ」
「そう。唯ちゃんも元気だった? あんなに良い子はいないわよ。あんたたち、本当にいい幼馴染よね」
母親は、ふきんで手を拭きながら満足げに目を細めた。
その口から出た「唯ちゃん」という響きには、一滴の情愛も混じっていない。
それは、近所の評判の良い娘を品定めするような、どこか他人事の響きだった。
「あの子も藤村さんのところで、立派に育ててもらって……。本当に、あっちの家に行って正解だったわね。お母さんも安心だわ」
「安心」だと?
久志は、胃の底が冷たく焼けるような感覚を覚えた。
かつて自分が産んだ娘。
自分と同じ血が流れているはずの存在を、「世間体」というフィルターで濾過し、ただの「息子の仲の良い知人」として脳内で書き換えてしまった母親の、恐ろしいほどの忘却力。
「ああ、藤村さんのところは教育熱心だからな。唯さんも、あそこにいれば将来安泰だろう」
父親が新聞から目を上げず、追認するように呟く。
「久志、お前もあの子に恥ずかしくないようにしっかりしろよ。変な噂が立てば、向こうの家にも迷惑がかかるんだからな」
(……迷惑? 実の娘が、隣町で他人のふりをして生きてることが、あんたたちには『正解』なのかよ)
久志の喉の奥まで、どす黒い言葉が競り上がってくる。
『あんたたちの娘は、今、俺がつけた痣を愛おしそうになぞってるよ。そして、あんたたちが汚物みたいに隠した血を、俺たちが如月荘で、どれほど深く混ぜ合わせているか教えてやろうか』
けれど、久志の唇から漏れたのは、それとは真逆の、滑らかなほどに穏やかな声だった。
「……分かってるよ。向こうの両親にも、いつも良くしてもらってるし。失礼のないようにしてる」
「そう。それならいいのよ。本当に、あんたたちが仲良しで助かるわ」
母親が、救いようのない善意の微笑みを浮かべる。
「助かる」という言葉の裏にある、不都合な過去を葬り去れたことへの安堵。
久志は、その「まとも」な両親の顔を直視し続けることができず、ゆっくりと背を向けた。
「……ああ。……疲れたから、部屋に行くよ」
「そう。おやすみなさい、久志」
背後で再びバラエティ番組の笑い声が弾ける。
久志は一歩一歩、自分の感情を殺しながら階段を上がった。
一歩。
二歩。
階段の軋む音が、まるで自分の心が悲鳴を上げているように聞こえる。
自分の部屋に入り、ドアを閉めて鍵をかける。
カチリ、という小さな金属音が、この「偽物の家」との唯一の境界線だった。
部屋には、親が買い与えた学習机や、かつて「家族四人」だった頃の、色褪せた写真の入っていないフォトフレームが置かれている。
俺は制服を脱ぎ捨て、床に放り出した。
ズボンのポケットから、如月荘一○三号室の鍵を取り出す。
手のひらに食い込む、安っぽい金属の冷たさ。
この鍵だけが、今の自分を「安倍久志」という空っぽな記号から繋ぎ止め、唯という唯一の真実へと引き戻してくれる錨だった。
「……いい幼馴染、か。死ねよ、本当に」
暗闇の中で独りごちる。
親たちが作り上げた「平穏」という名の虚像。
それを内側から食い破り、ドロドロの血をぶちまけてやるその日まで、俺はこの檻の中で、従順な息子のふりをし続ける。
窓の外では、唯が住む藤村家のある方角が、冷たく沈んでいた。
to be continued.




