84-02
「ハイランド」の店内。
ドリンクバーから運ばれてきたメロンソーダの泡が、パチパチと弾けて消える。
その無邪気な音が、今の久志には耳障りなほど明るく響いた。
「いやぁ、やっぱり四人で集まると落ち着くなぁ。なあ、和翠?」
優也がハンバーグを満足げに咀嚼し、隣に座る和翠の肩を親しげに引き寄せる。
和翠は少し顔を赤らめながらも、慣れた手つきで優也のネクタイの歪みを直してやった。
「もう、優也はいつも落ち着きがないんだから。……ねえ、唯ちゃん。久志くんも家ではこんな感じなの?」
和翠の柔らかい眼差しが唯に向けられる。
唯は、完璧な「幼馴染の少女」の微笑みを浮かべて小首を傾げた。
「ふふ、久志くんはもっと無愛想ですよ。私のことなんて、放っておくと目も合わせてくれないんだから」
「おい、人聞きが悪いだろ。……お前が勝手についてくるんだろ」
久志がぶっきらぼうにコーヒーを啜る。
「ほら、またそうやって照れる! 本当に二人は、ずっと変わらないよね。……俺と和翠も、数年後はそんな風に熟年夫婦みたいになれるのかな」
優也の屈託のない言葉。
それは、「名字も育ちも違う、正しい未来を持つ二人」だからこそ言える、眩しすぎる特権だった。
(……ねえ、久志。この人たちは信じているのね。明日も、明後日も、世界は自分たちの味方だって)
テーブルの下で、唯の冷たい指先が久志の膝に触れ、そのままじわじわとスラックスを這い上がってくる。
「熟年夫婦なんて、優くんたちは気が早いよ。……まずは卒業して、ちゃんと就職しなきゃ」
唯の言葉は、まるで善良なアドバイスのように響く。
けれど、テーブルの下で彼女の指は、俺の指を一本ずつ執拗に、蛇のように締め上げていた。
「就職かぁ。俺は和翠と一緒にいられるなら、どこだっていいけどな! 久志はどうするんだ? ずっとハイランドでフリーターってわけにもいかないだろ。せっかく能力あるんだから、何か考えろよ」
親友ゆえの、あまりに無慈悲な正論。
優也たちが語る「将来」や「キャリア」は、久志たちにとっては、自分たちの血と罪を隠すための仮面をさらに分厚くしろと言われているに等しい。
「……まあ、そのうちな。俺には、お前らみたいな輝かしい未来は似合わないよ」
「何言ってるんだよ、水臭いな。唯だって、久志の背中を見てるんだからさ」
和翠が優しく付け加える。
「そうよ。二人は、誰よりも深く繋がっているように見えるもの。きっと、どんな困難も二人で乗り越えていけるわ」
「深く繋がっている」 その言葉が、鋭利なナイフとなって久志の胸を抉った。
ああ、繋がっているさ。
和翠先輩、あなたが想像もできないほど、おぞましく、ドロドロとした血の鎖で。
唯の指が、俺の爪の間に自身の爪を深く立てた。
痛い。
けれど、この痛みが心地いい。
優也たちの「正しさ」という光に焼かれれば焼かれるほど、このテーブルの下の泥沼は、より冷たく、より愛おしい深みへと沈んでいく。
「……そうですね。私たちは、一生、離れられないかもしれません」
唯が、どこか遠くを見つめるような瞳で呟く。
その瞳に宿った暗い情熱に、和翠が一瞬だけ、戸惑ったように瞬きをした。
けれど、次の瞬間には優也が「重い重い!」と笑い飛ばし、店内にまた安っぽい喧騒が戻る。
やがて会計を済ませ、自動ドアが開いて外に出ると、夕暮れの冷たい風が吹き抜けた。
「じゃあな! また如月荘にも遊びに行くよ。次は和翠の手料理でも持ってくからさ!」
「楽しみにしていますね、和翠さん」
駐車場の入り口で、優也の車が軽快な音を立てて去っていく。
そのテールランプが街角に消えた瞬間。
二人の顔から、張り付いていた「光」の仮面が剥がれ落ちた。
「……気持ち悪い。反吐が出るわ」
唯が、絞り出すように呟く。
さっきまで和翠に向けていた柔らかな笑みは、もう一欠片も残っていない。
彼女は、自分の右手を汚いものを見るようにじっと見つめた。
そこには、俺が握りしめていた指の跡が、痣のように赤黒く浮かび上がっている。
「……ああ。……帰ろうか」
俺は、自分のポケットの中で、如月荘の冷たい鍵の感触を確かめた。
俺たちはここで、一度別れなければならない。
久志は「安倍家」へ。
唯は「藤村家」へ。
親たちが「世間体」のために、自分たちの血を消し去った「偽物の家」へと、それぞれの檻に戻るのだ。
背中を向けて歩き出す唯の、その凍てつくような孤独な背中を見送りながら、俺は思った。
あの無数の「正しさ」という光に貫かれた今の俺たちには、もう、この泥沼の底しか居場所はないのだと。
to be continued.




