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Separate Memory 〜美しい地獄で生きる。その為に世界を見捨てた。〜  作者: 水瀬輝夜
-美しくも醜い祈り-

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83-01


ファミリーレストラン「ハイランド」の自動ドアが開くたび、店内の湿った熱気と、客たちの無機質な話し声が夜の闇に吸い込まれていく。


「お疲れさまでした」


深夜二時。バイトを終えた俺の制服には、油の匂いと、誰かの食べ残した日常の残骸が染みついていた。

卒業してから、世界の色は一気に抜け落ちたような気がする。

大学に進学した優也は、今頃サークルの飲み会か何かで、和翠先輩と笑い合っているのだろうか。

高校二年の桜は、部活の夢でも見ながら泥のように眠っているのだろうか。


「ハイランド」の駐車場。 街灯の届かない植え込みの影に、見慣れたシルエットがあった。


「……ねえ、久志。遅かったね」


藤村唯。

俺の、名前の違う、血の繋がった「他人」。

彼女は薄いコートのポケットに手を突っ込み、少しだけ肩をすくめて俺を待っていた。

何もしない。どこへも行かない。

ただ、この家という檻の中で家事を手伝い、俺がバイトを終えて「ハイランド」の看板が消えるのを待つだけの日々。


「……ああ。少し、片付けに手間取ってさ」


俺たちは、肩が触れ合うほど近く、けれど決して手を繋ぐことはなく歩き出す。

この距離が、俺たちの「嘘」の限界点だった。


「優也くんからラインが来てたよ。今度、和翠さんと四人で集まろうって。また『ハイランド』でいいかなって言ってた」

「……そう。あいつらは、元気そうだな」


かつては四人で笑い、ドリンクバーを囲んでいたあの席が、今はもう遠い異国の遺跡のように思える。

あいつらは今、太陽の下で正しく「愛」を育んでいる。

対する俺たちは、こうして夜の闇に紛れ、誰にも言えない共犯関係を、少しずつ、鋭利に研ぎ澄ませている。

ふと、以前誰かに教わった「光る氷の話」が脳裏をよぎりそうになった。

世界が二人を祝福するとき、空から光の粒が舞い降りるのだという、温かくて、眩しすぎるお伽話。

けれど、今の俺はその記憶に触れることさえ、汚らわしいと感じてしまう。


「……寒いね、久志」


唯が、わざとらしく俺の腕に指先を這わせた。

その指は、驚くほど冷たい。 けれど、その氷のような冷たさこそが、俺にとっては唯一、自分が「生きている」と感じられる熱源だった。

俺たちの間に流れているのは、祝福なんて生ぬるいものじゃない。

もっと冷酷で、一歩間違えればお互いの喉元を掻き切ってしまうような、研ぎ澄まされた「何か」だ。


「……帰ろう。俺たちの、牢獄へ」


俺の言葉に、唯が満足そうに、けれど悲しそうに目を細めた。

これが、終わりの始まり。

自らの手で心臓に槍を突き立て、二度と抜けない杭を打ち込むまでの、静かな、静かな潜伏期間だった。





「……ただいま」


錆びついた鍵を回し、安っぽい木製のドアを押し開ける。

如月荘一○三号室。

さっきまで一緒に歩いていたはずの唯が、俺の背中に吸い付くようにして室内へと滑り込んできた。

六畳一間の狭いワンルームには、日中のこもった熱気と、どこか湿り気を帯びた生活の匂いが充満している。

藤村の「家」ではなく、久志がバイト代を切り詰めて借りたこの「牢獄」に入った瞬間、二人の間に張り詰めていた「他人のふり」という糸が、ぷつりと切れた。


「……はぁ。やっと、息ができる」


玄関先で靴を脱ぐ間もなく、唯が後ろから俺の腰に腕を回した。

彼女は俺の背中に顔を埋め、まるで飢えた獣のように、俺に染み付いた「ハイランド」の油の匂いや、外の世界の空気を吸い込む。


「……唯。苦しいよ、まだコートも脱いでない」 「いいの。……こうしてないと、私、自分がどこにいるか分からなくなっちゃうから」


唯の声は、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど細い。

電気もつけないまま、俺たちは手探りで狭いベッドに倒れ込む。

きしむバネの音が、この部屋の貧しさを嘲笑うように響いた。


「ねえ、久志。さっきの優也くんからのライン、どう返そうか」


唯の指先が、俺の喉仏をなぞる。

その感触は、鋭利なナイフの刃を当てられているような緊張感を伴っていた。

「和翠さんと四人で、また集まろう」という、優也の無邪気な誘い。

それは、この密室にいる俺たちにとっては、外界から差し込まれる「正しさ」という名の暴力だった。


「……優也たちは、俺たちのこと、何も知らないんだ」

「そうね。……お似合いの、綺麗な姉弟だと思ってる。……滑稽よね、本当に」


唯が暗闇の中で、低く、愉しそうに笑った。

その笑い声に合わせて、彼女の体が微かに震える。

俺たちは、お互いの鼓動が重なるほど強く抱きしめ合う。

けれど、その熱は決して安らぎにはならない。

触れ合えば触れ合うほど、血の繋がりという名の「槍」が、互いの肉を深く、深く抉っていく。


「ねえ、久志。……もっと強く、刺してよ」


唯が俺の耳元で囁く。

それは愛の告白というにはあまりに凄惨で、呪いというにはあまりに純粋な願いだった。


「このまま、誰にも見つけられない場所まで、二人で堕ちていけたらいいのにね」


俺は何も答えず、ただ彼女の冷たい指先を握りしめた。

外の世界では「名字の違う他人」を演じ、この部屋では「逃げ場のない共犯者」となる。

この狭い檻の中で、俺たちは世界で一番自由で、そして世界で一番不自由な、一対の魂だった。

窓の外では、深夜の国道を走る車の走行音が、遠い波の音のように響いている。

夜が明ければ、また地獄のような「日常」が始まる。

けれど、今この瞬間だけは、この部屋を満たす絶望だけが、俺たちの真実だった。

薄い壁越しに、隣人の生活音や遠いパトカーのサイレンが聞こえる。

そのたびに、唯の腕が俺の体に食い込むほど強く抱きしめられた。

外の世界の声が聞こえるたび、俺たちは自分たちが「招かれざる客」であることを再確認する。


「……ねえ、久志。あかり、点けないで」


唯の声は、湿った毒のように俺の耳孔に潜り込む。

カーテンの隙間から差し込む街灯の街の光だけが、彼女の瞳の奥にある濁った光を浮かび上がらせていた。

俺たちは服を脱ぐことさえ忘れたまま、ただ互いの存在を「確認」し合う。

それは愛撫というより、検品に近い。


「優也くん、言ってたよね。『二人は本当の家族みたいに仲が良いね』って」


唯が、俺の胸元のシャツを指先で強くねじ切るように掴んだ。

その爪が肌をかすめ、かすかな痛みが走る。


「……ああ。あいつは、純粋だからな」

「純粋。……残酷な言葉。ねえ、久志。本当の家族だったら、こんなことしないよね? もし私たちが、名字も家も、何もかも同じ『普通の姉弟』だったら……今頃、どんな顔をして朝を迎えていたと思う?」


唯の問いに、俺は答えられない。

「もしも」なんて仮定は、俺たちの前では無意味だ。

俺たちが選んだのは、名字が違うという「嘘」を隠れ蓑にして、血の繋がりという「真実」を犯し続ける道だ。


「……きっと、お互いに見向きもしなかったさ。お前はどこかの誰かと恋をして、俺も適当な女と笑って。……それで、たまに実家で顔を合わせて、当たり障りのない会話をする。……そんな、吐き気がするほど『まとも』な未来があったはずだ」


俺の言葉に、唯が狂おしそうに身体を震わせ、俺の首筋に歯を立てた。

痛みが走る。けれど、その痛みがなければ、自分がこの現実の底に沈んでいる実感が持てなかった。


「……最低。……最高に最低だよ、久志」


唯は俺の傷口をなめるように囁く。

窓の外が、わずかに白み始めていた。

夜明け。

それは、俺たちが「仲の良い他人」という仮面を再び被らなければならない、処刑の時間の始まりだ。


「夜が明けたら、また優也くんたちの前で『幼馴染』を演じるのね。和翠さんの前で、いい後輩のふりをするのね。……ねえ、久志。私たちの心臓に刺さっているこの槍、いつか誰かに見つかってしまうのかな」


唯が俺の頬を両手で挟み、じっと見つめてくる。

逆光の中で、彼女の顔は聖母のようでもあり、奈落へ誘う死神のようでもあった。


「……見つかる前に、もっと深く刺しちまえばいいさ。誰の手も届かない場所まで」


俺は彼女の冷たい唇を塞いだ。

夜明けの光が、如月荘の安っぽい畳を照らし始める。

それは祝福の光ではない。

俺たちの罪を暴き、再び「偽物の日常」へと引き摺り出すための、無慈悲な合図だった。

俺たちは、もつれ合うようにして眠りにつく。

数時間後には、優也からの「ハイランドで待ってる」という無邪気な通知に、笑顔の絵文字を返さなければならない。

それが、俺たちが自らに課した、終わりのない服役だった。


to be continued.

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