82-28
夜の巫女ノ丘公園。
街灯の乏しいベンチに座る二人の間には、物理的な距離以上に、冷たく巨大な断絶が横たわっていた。
久志は安倍家へ、唯は藤村家へ。
それぞれの苗字を持ち、それぞれの玄関へと帰らなければならない。
双子として生まれながら、別々の人生を歩まされてきた二人の「根源的な孤独」が、今、残酷な真実となって牙を向いていた。
「……寒いね、久志」
唯が、白く濁った息を吐きながら呟いた。
その声は驚くほど小さく、夜の闇に吸い込まれて消えていく。
久志は隣で、膝の上に置いた拳を強く握りしめていた。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。
「……唯。母さんから、全部聞いた。……俺たちは、最初から間違っていたんだって。……出会うことすら、許されなかったんだって」
久志がようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「……嘘みたいだよね。二年間も、隣にいて……あんなに、触れ合っていたのに。……安倍くんと、藤村さん。……他人のふりをして、違う家で育って……。……神様は、私たちで遊んでるのかな」
唯が自嘲気味に笑う。
その横顔を街灯が冷たく照らし出し、泣き腫らした瞳の縁を赤く浮き上がらせていた。
「……ねえ、久志。……私たち、これからどうしたらいいの?」
唯の問いは、逃げ場のない絶望だった。
「……普通なら、ここで終わりなんだ。……それぞれの家に帰って、赤の他人として、たまに親戚の集まりで顔を合わせるだけの『姉弟』になる。……君は藤村家で幸せになって、俺は安倍家で君を忘れる努力をする。……それが、一番正しいんだ」
久志はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
握りしめた拳が、小刻みに震え始める。
「……でも、俺にはできない。……別の家で、別の名字を名乗って……君が、俺じゃない誰か知らない男と出会って、恋をして、結婚して……。……その男とキスをして、抱かれて、俺の知らない顔を見せる……。……そんなの、想像しただけで狂いそうになる。……姉弟だって分かってるのに、俺は、君を他の誰にも渡したくないんだ……!」
久志の告白は、悲鳴に似ていた。
血の繋がりという現実よりも、彼女を失う恐怖が、彼の理性を焼き切ろうとしていた。
唯は、息を呑んだ。久志のその苦しげな独占欲が、彼女の胸の奥に、甘く、冷たい灯をともす。
「……久志……。……私もだよ。私も、あなた以外の誰かに触れられるなんて、考えただけで気持ち悪い。……あなた以外の誰かと笑い合って、一生を共にするなんて……そんなの、嫌」
しかし、唯の表情にふと影が差した。
握りしめた久志の手に、力がこもる。
「……でも、できないよ。……優くんに、なんて言えばいいの? どんな顔をして会えばいいの? ……あんなにキラキラした場所にいるのに、私たちの……このドロドロしたものを、見せられるわけない。……優くんには、絶対に話せないよ……」
唯の声が震える。親友たちの「光」を汚したくないという思いと、久志への執着が、彼女の中で激しく衝突していた。
「……だから、一緒に堕ちてくれないか。唯」
久志の声は、もはや温もりを失い、底の見えない淵から響く残響のようだった。
一歩ずつ、逃げ場のない暗闇の深淵へと、彼女の魂を静かに引き摺り込んでいく。
「堕ちる……?」
唯が震える声で繰り返す。
その言葉の重みに、心臓が凍りつくような感覚を覚えた。
「ああ。家は別々だ。名字も違う。……だからこそ、世界を欺ける。表向きは親戚の『安倍』と『藤村』として、完璧な仮面を被って生きるんだ。優也たちの前では、一点の曇りもない『仲の良い姉弟』を演じ切る。……そして、誰の目も届かない暗闇の中だけで、二人になろう」
久志は、震える唯の頬を氷のように冷たい手で包み込んだ。
その瞳には、かつての光は微塵も残っておらず、ただ執着という名のどす黒い情念が渦巻いている。
「君の未来を、俺が全部食い潰す。一生、出口のない迷路を歩かせることになる。優也たちに、親たちに、世界中に……死ぬまで『嘘』をつき続ける罪。その地獄を、俺と一緒に背負ってくれるか?」
久志の言葉は、救いなどではなかった。
それは、彼女を自分と同じ孤独と背徳の檻に閉じ込めるための、呪いの誓いだ。
唯は、久志の瞳の奥に広がる闇を見つめた。
かつては愛おしかったその色彩が、今は自分を飲み込もうとする巨大な口に見える。
けれど、その闇こそが、今の自分にとって唯一の安らぎであることも理解していた。
「……ねえ、久志。……それを言うなら、私のほうがもっと酷いよ」
唯はゆっくりと、自分を包む久志の手を、逃がさないように上から重ねた。
「……あなたが私のために地獄を拓いてくれるなら、私は喜んで、その一番深い場所に堕ちる。……優くんたちには、一生綺麗な笑顔で嘘をつくよ。……藤村の娘として幸せなふりをしながら、心の中では、あなた以外のすべてを呪うわ」
唯の瞳から、最後の一滴が零れ落ちる。
それは人間としての倫理を捨て、共犯者として生まれ変わるための儀式のようだった。
「……うん、いいよ。一緒に行こう、久志。……世界で一番美しくて、悍ましい……『他人のふりをした姉弟』になろうね」
久志は、唯を壊すような強さで抱きしめた。
二人の体温が混ざり合い、境界線が溶けていく。
血の繋がりという忌まわしい鎖が、今は二人を繋ぎ止める唯一の拠り所となっていた。
「……行こう。それぞれの、嘘の場所へ」
「……うん。また明日ね。……安倍くん」
唯が、わざと他人のように、けれど執着を込めてその名を呼んだ。
二人は立ち上がり、ゆっくりと、正反対の方向へ歩き出す。
一歩、また一歩と離れるたびに、二人の影は引き延ばされ、夜の闇に同化していった。
けれど、彼らの魂の奥底には、誰にも暴けない、決して消えない「夜」が根を下ろしていた。
別々の家に帰り、別々の名字を名乗り、互いに知らない時間を過ごしていても。
二人の意識は、決して明けることのない奈落の底で、より深く、より醜く、結ばれていた。
それが、終わりの始まり。
「双子の片割れ」という運命を、自らの手で「一生解けない呪い」へと書き換えた二人の、最初の夜明けだった。
歩みを進めるたび、背後から突き刺さるのは後悔ではない。 それは、自分たちの手で研ぎ澄ませた、無数の「嘘」という名の鋭利な槍だった。
心の中で名を呼ぶたび、その槍は容赦なく二人の背中を貫き、魂を血塗られた共犯の鎖で縫い付けていく。
これから一生、彼らは太陽の下で、互いを求めて殺し合うように愛し合わなければならない。
親を騙し、友を欺き、己の血を呪いながら、吐き気がするほど爽やかな「他人」を演じ続ける日々。
その先に待っているのは、安らかな救済などではない。
けれど、二人にとっては、この痛みの伴う絆こそが唯一の真実だった。
「ねえ、久志。……地獄って、案外暖かいんだね」
ふいに、唯が振り返ることなく、夜風に声を乗せた。
その声は微かに震えていたが、どこか清々しささえ帯びていた。
「ああ……。君と一緒なら、焼かれるのも悪くない」
久志もまた前を見据えたまま、その言葉を闇の中に沈める。
「……もう、誰にも、邪魔させたくない。たとえ神様にだってっ」
「……もちろん、誰にも、見つけさせないさ。俺たちだけの場所を、守り抜くんだ」
二人の言葉は、祈りというにはあまりに鋭く、呪いというにはあまりに純粋だった。
一言交わすたび、背中の槍が深く、深く肉を裂き、逃げ場のない「運命」という名の檻を完成させていく。
逃げ場はない。
けれど、二人はその檻の中で、誰よりも自由だった。
この夜が明けたとき、世界は彼らにとって、最も残酷で、最も美しい「聖域」へと変わる。
「……ねえ、久志。……もう、引き抜けないね」
唯のその言葉は、背中に刺さった槍を、自らさらに深く押し込むような響きを持っていた。
「……抜くつもりなんて、最初からないよ。……俺たちは、この痛みの中でしか、正気でいられないんだから」
久志は吐き捨てるように言い、歩みを速めた。
二度と戻れない。二度と、やり直せない。
自ら心臓を貫いた杭は、もはや肉の一部となって、拍動するたびに二人を苛み、繋ぎ止める。
(……愛してるよ、唯。地獄へ、一緒に行こう)
(……私、幸せだよ。久志愛しています)
明日、世界がどれほど眩しく彼らを照らそうとも。
彼らの内側に宿る「夜」だけは、誰にも、神様にだって暴けはしない。
互いの影さえ見えなくなった道で、二人は二度と戻れない一歩を踏み出した。
Chapter ends; the next chapter begins.




