76-22
マンションのチャイムに誘われ、蒼は目を覚ました。
「そうか……こんなところで寝てたんだ」
身体を起こすと、再びチャイムが鳴る。
リビングのソファで固まっていた身体を解しながら、蒼は玄関へと向かった。
扉を開けると、そこにはトートバッグを手にしたてんが立っていた。
「……てん、おはよう」
「おはようございます、蒼くん」
「外は寒かっただろ。入りなよ」
「うん、お邪魔します」
蒼がてんを招き入れると、彼女は蒼の背中を追うように歩きながら、クスッと悪戯っぽく笑った。
「あのですね、すごい寝癖ですよ。例えるなら、髪が爆発しています」
「……あ。ソファで変な体勢で寝てたからかな」
「? どうしてですか? いつもなら、何があっても自分のベッドで寝るのに」
「……それ、わかってて言ってるだろ」
「ごめんなさい。ちょっと意地悪でしたね」
「いいよ。……てんの想像通りだよ。今、弥生が部屋を使ってるからさ」
てんは「ふふっ」と満足そうに微笑んだ。
「突然どうしたんだ?」
「今の蒼くんの顔を見ればわかります。こういう言い方は違うかもですけれど……上手くいった、いいえ、良い方に向かったみたいですね」
蒼は少し照れくさそうに、けれど力強く頷いた。
その時、カチャッと音を立ててリビングの扉が開き、目を擦りながら弥生が入ってきた。
「……蒼ちゃん、おはようございます」
「おはよう、弥生」
「てんちゃん、おはようございます」
「二人とも、朝食食べますよね?」
てんは手に持っていたトートバッグを少し持ち上げて見せた。
「……お願いできるかな?」
蒼の言葉に、てんは「喜んで!」と弾んだ声で答え、キッチンへと入っていく。
「あ……私も手伝います」
弥生もてんの後を追うようにキッチンへ。
「弥生ちゃん、ありがとう。それじゃあ、卵を溶いてくれる?」
「うん、わかった」
蒼は、並んで立つ二人の後ろ姿を眺めていた。
すると、不意に熱いものが込み上げ、一筋の涙が頬を伝った。
それに気づいた二人が、心配そうに顔を覗き込む。
「蒼くん、どうしたんですか?」
「蒼ちゃん、どうしたの……?」
「……ああ、ごめん、ごめん」
蒼は慌てて袖で涙を拭った。
「二人が並んで立ってるのを観てたら……その、やり直せたんだなって。そう思ったら溢れてきただけだから。遠回りだったかもしれないけど、これで良かったんだって、今はそう思えるんだ」
「そうですね。少し前までは、こうして弥生ちゃんと一緒にお料理ができるなんて、思ってもみませんでした」
てんは隣にいる弥生に、柔らかな視線を向ける。
「……そうだね。私、ずっと蒼ちゃんに酷いことばかりしてて……」
弥生が後悔を滲ませて俯くと、蒼はそれを諭すように言葉を添えた。
「もういいんだよ、それは。弥生もわかってるだろ? 過去は変えられないけど、今を変えて未来を作るんだって」
「うん。……変えられたのかな。ちゃんとできているのか、まだ不安になるけど……」
「その答えが出るのは、もっと先の未来だよ」
「未来か。……遠いね」
しんみりとした空気を振り払うように、てんがパンッと両手を鳴らした。
「湿っぽいのはここまでです! せっかくの新しいスタートには似合いませんよ」
「……そうだな」
「なので、蒼くんと弥生ちゃんにひとつお願いがあります」
「僕たちにできることなら、何でも言って」
「簡単なことです。私の名前を、呼んでください。あだ名じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでほしいんです」
「……そうか。僕たちの新しい一歩に、ちょうどいいかもしれないな」
蒼の言葉に、弥生も深く賛同した。
「新しいスタート……。そうですね、気持ちを切り替えるためにも、素敵だと思います」
「では、どうぞ! はい、呼んでくださいっ」
「……どうぞって言われると、かえって言いづらいな」
「蒼ちゃん、そんなこと言わずに、最初はお譲りしますよ」
「弥生、恥ずかしくて逃げてないか?」
「いえいえ、そんなことありません。てんちゃんとの『初めて』は、やっぱり蒼ちゃんがいいと思いますから」
蒼は一度、深く深呼吸をした。
そして、これまでの長い年月、自分を支え続けてくれた大切な幼馴染の名を、一文字ずつ噛みしめるように呼んだ。
「___今までありがとう。そして、これからもよろしくな。天」
to be continued.




