75-21
蒼がリビングで待っていると、しばらくして弥生が姿を現した。
「思ったより早かったな……」
声をかけた蒼だったが、その姿を見て言葉を詰まらせた。
脱衣所に用意しておいた服を着ていなかったからだ。
弥生はバスタオルを一枚体に巻いただけの姿で、そこに立っていた。
「服、準備してただろ? どうしたんだ」
「……私には、もうこれを差し出すことしか残ってないから。それに、男の人はこういうの、好きでしょ?」
弥生は自虐的な笑みを浮かべると、唯一体を隠していたバスタオルを指先で解いた。
何も隠さないありのままの肢体が、蒼の前で露わになる。
蒼は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに静かに俯き、目を閉じた。
そして、ポールハンガーに掛けていた自分のコートを手に取ると、一歩踏み込んで弥生の肩にそっと掛けた。
「……っ、どうして」
「好きか嫌いかで言えば、僕だって男だ。興味はあるし、好きだよ。でも、今はその時じゃない。第一、弥生自身がそんなこと望んでないだろ。罪悪感からくる贖罪として自分を投げ出すのは、違うんじゃないか?」
「だけど……っ! それじゃなきゃ、私の気が済まないの! 自分がしてきた罪に押しつぶされて、どうにかなってしまいそうなのよ!」
弥生は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
「自分を責めて守ろうとするのもわかる。だけど、今は目を逸らさずに事実を受け止める時だよ」
「……事実」
「あの事故の時、僕は弥生が大切だと思った。だからこの道を選択したんだ。……もちろん、僕だって人間だから、どうしていいか分からなくて最悪なことを考えた時期もあったよ。それでも、あの時の選択に後悔はない。ただ……少し、辛かっただけだ」
「後悔してないなんて嘘よ! 私は貴方をあんなに傷つけた。右目だって……そんなの、ありえない……っ」
蒼は、迷子に言い聞かせるような優しい口調で続けた。
「嘘じゃないよ。それに、これは僕が勝手に始めたことだ。だから弥生がすべてを背負う必要はないんだよ」
(いつも、こうやって優しく私の名前を呼んでくれていた。……でも、それが今の私には、何よりも辛い)
「弥生。お前はこれから、どうしたい?」
「……これから?」
「僕やおじさん、てんは、もう答えを出してる。あとは、弥生だけだよ」
「どうしたいって……答えって、どういうこと?」
「このまま一生、過去の罪に縛られて動けなくなるのか。それとも、前を向いて未来へ歩き出すのか。どちらを選んだとしても、自分の選択にだけは後悔しないようにしてほしいんだ」
「後悔しないなんて……出来るわけないじゃない! 『ああすれば良かった』『こうすれば良かった』って、みんな何かしら後悔して生きてるわよ! 後悔のない人生なんて、漫画やドラマの中だけの話よ!」
「確かに、失敗のない人生なんて創作の世界だけかもしれないな。でも、僕が言いたいのは結果の話じゃない。『受け止め方』の話なんだ。君から受けてきた仕打ちは、客観的に見れば最悪な状況だよ。いつ逃げ出しても、警察に駆け込んでもおかしくなかった。正直に言えば、逃げたいって思った夜は一度や二度じゃない」
「……だったら、どうしてそうしなかったの?」
「そうなりかけた時、いつも自分に問いかけてたんだ。ここで投げ出して、本当に後悔しないのかって。……答えは簡単だった。警察に行けば弥生が捕まる。おじさんだって世間から責められる。そんな未来、僕はこれっぽっちも望んでなかった。あの時の僕は、ただ弥生に生きていて欲しかった。それだけなんだ。……だから、何度でも言うよ。僕はこの選択に後悔はない。だから弥生も、自分が納得できる道を選んでほしい。君が決めたことなら、僕たちは何も言わないから」
弥生は頬を涙で濡らしながら、心の奥底に溜まっていた本音を吐き出した。
「その選択をしたいけど……私には、そんな資格ない……! あんなに傷つけて、右目だって奪って……」
蒼の言葉を遮るように、彼女は続ける。
「……言いたいことは分かってる。でも、頭では理解できていても、心が……心がどうしても拒んでしまうの。だから、出来ない……っ」
整理のつかない感情に振り回され、震える弥生。蒼はあえて心を鬼にし、言葉を選びながら言い放った。
「『出来る・出来ない』の理由を並べるんじゃなくて……弥生が、どう『したい』かを訊いてるんだよ」
「……でも……」
「例えどんなに足掻いても、泣き叫んでも、どれほど祈ったって、過ぎ去った過去は絶対に変えられない。……だけど、今この瞬間を変えて、未来を創っていくことは出来る。過去に囚われて足踏みするより、少しでも明るい場所へ歩いていく方がいいだろ?」
蒼の真っ直ぐな言葉に、弥生はゆっくりと、重い瞼を閉じた。
「……そう、かも、しれません……」
沈黙の後、弥生は消え入るような声で言葉を継いだ。
「……さっきも言った通り、貴方の言いたいことは分かっているつもりです」
「それなら、良かった」
「……でも、すぐには……きっと、まだ無理です。……ごめんなさい」
蒼はすべてを包み込むように、短く返した。
「わかってる。少しずつ、一歩ずつでいい。弥生のペースで、選んでいけばいいんだよ」
弥生はまだ涙の跡が残る顔で、ぎこちなく、けれど微かな光を宿した笑顔を蒼に向けた。
「……うん。ありがとう、蒼……ちゃん」
to be continued.




