72-18
蒼は決意を胸に、御堂家のインターホンを押した。
迎え入れた凌二の表情は重く、静かだった。
「準備はできている。遠慮せず上がりなさい」
「お邪魔します」
一礼して靴を脱ぎ、リビングへ入る。
最初に視界に飛び込んできたのは、ダイニングチェアに座り、険しい顔でこちらを睨みつける弥生の姿だった。
凌二がまだ何も話していないことを悟ると同時に、蒼はわずかに安堵した。
(これは僕が始めたことだ。僕自身の手で終わらせなきゃいけない)
蒼は深く息を吸い込み、弥生と向き合うように席に着いた。
「人殺しが、今更なんの用ですか?」
座った途端、弥生の先制攻撃が飛ぶ。
しかし、蒼も凌二もその挑発には乗らなかった。
「……言いたいことがあるなら、言ったらどう?」
無言を貫く蒼に、弥生は追い打ちをかける。
「どんなに言い訳を繕ったとしても、あんたがママを殺した事実は変わらない」
その言葉を遮るように、凌二が静かに、諭すような口調で割って入った。
「弥生。それはお前の中の『真実』であって、『事実』ではないだろう?」
「お父さん? 真実も事実も同じ意味でしょ。屁理屈を言ってる場合じゃないわ。それに、どうしてお父さんはいつもソイツを庇うのよ!」
「それは……」
蒼が身を乗り出そうとしたが、凌二が手でそれを制した。
「蒼くん、最初は私に話させてくれるか」
「……わかりました」
凌二は一度、お茶で喉を潤してからゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「弥生。母さんを殺したのは蒼くんだと、今も本気で思っているのか?」
「……はい、当然です」
「疑問に思ったことはないのか?」
「ないわ。運転してたママにソイツがちょっかいを出して、運転を誤らせた。それが真実でしょ?」
「……蒼くんからそう聞いた、からだな?」
「そうです。今更何を言っているの」
「もう一度言う。それは弥生の中だけの真実だ。実際に起きた『事実』ではない」
弥生は父の意図が掴めず、怪訝な表情を浮かべる。
「弥生、蒼くんはお前を救ってくれたんだ。私が彼に感謝することはあっても、恨むことなんて絶対にない」
「……だったら、その『事実』ってやつを教えてよ!」
促され、凌二は六年前のあの日の記憶を紐解き始めた。
「六年前のあの日、私たち家族と蒼くんの家族、六人で旅行に出かけた帰りだった。ハンドルを握っていたのは母さんだ。助手席には蒼くんのお母さん、その後ろに蒼くん。運転席の後ろに蒼くんのお父さん。三列目に私と、疲れて眠っていた弥生が座っていた。あの日、外は雨だったよ」
凌二の瞳には、今も鮮明にその光景が浮かんでいるようだった。
「片側一車線の道路で、母さんは安全運転を心がけていた。だが、それが後続車を苛立たせたんだろう。視界が悪い中、無理な追い越しをかけようと中央線をはみ出してきた車があった。そこに対向車が来たんだ。対向車は咄嗟にハンドルを切り、避けた先が……私たちの車だった。接触は避けられなかった。対向車が右側から突っ込み、弾き飛ばされた後続車もまた、ガードレールを突き破って私たちの車に激突したんだ。……運転席の母さん、助手席とその後ろにいた蒼くんの両親は、即死だった。一番後ろにいた私とお前は軽傷で済んだが、後部座席にいた蒼くんは重傷を負った。……これが、事故の真相だ」
「……それがどうしたっていうのよ。そんなの作り話でしょ?」
「弥生、その事故で、蒼くんは左脚を失っているんだ」
「ちょっと待ってよ!」
弥生が声を荒らげるが、凌二は言葉を止めない。
「私はあの日、起きていた。蒼くんが母さんにちょっかいを出した事実なんて、どこにもなかったんだ」
「だから、お父さん待って! なんでそんな嘘を……」
「待たない。弥生、お前が知りたかったことだ。厳しいかもしれないが、もう現実を見る時だ」
「ソイツが足を失った? 私は今までずっと、あいつが歩いている姿を見てきたわ! 足を移植したとでも言うの?」
「一度失ったものは、二度と戻らない。……蒼くん、いいかな」
「……はい、大丈夫です」
蒼は机の下へ身を屈めると、しばらくして『それ』を取り出し、カツンと乾いた音を立ててダイニングテーブルの上に置いた。
「これは……」
精巧に作られた足の形をした造形物。
弥生の呟きに、凌二が短く答えた。
「……義足、だよ」
弥生は絶句した。
しかし、すぐに震える声で絞り出す。
「いいわ、事故のことはわかった。だったらどうして、こんな嘘をつき続けていたのよ!」
凌二は再び、当時の弥生の状態を語り始めた。
「母さんが死んだと伝えてから、お前は生きることを拒絶した。何も話さず、何も食べず……。医者は、弥生自身が母親の死という現実から逃げるために、心を閉ざしてしまったと言っていた。病院のベッドで日に日に痩せ細っていくお前を、私は見ていることしかできなかった。……そんなある日、突然お前が無邪気な笑顔を取り戻したんだ。順調に回復し、普段の生活を送れるようになった。だが、私は知った。蒼くんが、自分の身を犠牲にしてまで、お前の『生きる理由』を肩代わりしてくれたのだと」
「……私を、救った?」
「そうだ。蒼くんが、お前に『憎しみ』という名の生きる理由を与えてくれたんだよ」
バトンを引き継ぐように、今度は蒼が静かに語り出した。
◆
六年前、宮野総合病院の八階。
幼い蒼の左脚は、すでに失われていた。
彼は慣れない手つきで車椅子を操作し、弥生の病室を訪ねた。
痩せ細っていく大切な幼馴染。
彼女を助けたい一心で、蒼はある決意を固めた。
(僕が、彼女の生きる理由になる)
蒼はベッドに近づき、深呼吸をして嘘を吐いた。
「弥生ちゃん……ごめんね。僕がふざけたせいで、事故が起きたんだ。僕がおばさんを殺したんだ」
弥生の瞳に、わずかな光が宿った。
「……本当に?」
久しぶりに聞いた彼女の声に、蒼は喜びが込み上げた。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
「ああ、本当だよ」
その瞬間、弥生は豹変した。
車椅子に乗る蒼に飛びかかり、その細い首を全力で締め上げた。
「死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ! 死ね! 死ね!」
憎しみが、衰弱していたはずの少女を動かした。
蒼は首から手を引き剥がすが、弥生の手は止まらない。
「なんで! なんであんたが生きてるのよ!」
弥生は蒼の顔を掴み、テレビで見た格闘技の真似事で膝蹴りを顔面に叩き込んだ。
衝撃で車椅子がバランスを崩して倒れた瞬間、弥生の左手の親指が、蒼の右目に深くめり込んだ。
「____っ!」
声にならない絶叫を上げ、もがく蒼。
弥生はナースコールをすることもなく、ただ、自分の右手の指から滴る赤い血を眺めながら、苦しむ蒼を見下ろしていた。
◆
蒼は今、テーブルを挟んだ向かい側にいる弥生を、静かに見つめ続けた。
「……その後、痛みが引いた頃に体を這わせて車椅子に戻り、病室を出たよ。看護師さんには、弥生のせいにするわけにはいかないから、車椅子から落ちた時に自分で刺したんだって嘘をついた。左脚に続いて右目も失ったけど、義足と義眼があれば今の時代はなんとかなる。……代償は大きかったけど、大切な君を救えた。それでいいんだって、本気で思ってた」
蒼が悲しげに微笑むと、義足を手に取って再び左脚に装着した。
その時、弥生がゆっくりと、重い口を開いた。
「……どうして、そんな風に笑っていられるの?」
「……笑ってるかな」
その曖昧な表情が、弥生の感情を爆発させた。
「笑ってるわよ! そんなに重荷を下ろせたことが嬉しいの? それとも、私を簡単に騙せた馬鹿な女だと笑っているの?」
「そんなわけないだろ!」
立ち上がった弥生は、止まることなく激情を吐き捨てた。
「今さらこんな事実、知りたくもなかった! どうして……どうしてあの時、私を死なせてくれなかったのよ!」
叫ぶだけ叫ぶと、弥生はリビングを飛び出し、夜の闇へと駆け出していった。
「弥生!」
蒼が後を追おうとしたが、凌二に肩を掴まれた。
「蒼くん……待ちなさい」
「でも、おじさん!」
「あの時、お前が弥生の命を救ってくれたのは事実だ。だが……弥生は今まで、生きながらに死んでいたんだと思う」
「生きながら、死んでいた……?」
「ああ。君のついた嘘という『鳥籠』の中で、ずっと強制的に飼われていたんだ。空を飛べない鳥は、死んだも同然だろう?」
凌二の言葉に、蒼は胸を突かれた。
彼女を救ったつもりでいたが、自分は彼女の本当の時間を止めていただけだったのかもしれない。
「蒼くん。今度こそ、弥生を救ってやってくれ。未来を一緒に、なんて贅沢は言わない。だが、本当の意味で……あの子に、自分の足で歩かせてやってほしい」
凌二は深く頭を下げた。
「……はい。弥生がもう二度と俯かずに、前を向いて生きていけるように。……僕の願いも、同じです」
蒼は力強く頷くと、リビングを飛び出した。
外はまだ雪が降っている。
冷たい空気の中、蒼は弥生の背中を追って走り出した。
to be continued.




