71-17
蒼は自宅マンション「レクシール」へと戻ってきた。
玄関の鍵を開けると、「おかえりなさい」というてんの明るい声が、温かな空気と共に蒼を出迎えた。
「朝出るとき、待たなくていいから帰っていいって言っただろ。何か忘れ物でもしたのか?」
「違うよ。最初は帰ろうとしていたんです。でもね、よく見たら隅っこのほうに埃が溜まってたから、お掃除してました。それで、ついでにお洗濯とかご飯の準備とかしてたら、蒼くんが帰ってきた……みたいな感じです」
「そうだったのか。……いろいろ、ごめんな、てん」
「蒼くん、私がしたくて勝手にやったことなので、謝る必要なんてないですよ」
「だけど……」
「私は謝ってほしくてしたわけじゃないんです。ただ、蒼くんが喜ぶかなって。蒼くんのためにって、そう思っただけだから」
蒼は不意に、昼間の久志や優也とのやり取りを思い出した。
誰かを想い、誰かのために動く。
そこには難しい理屈なんていらない。
あるのはただ、素直な心のままに……。
「……そうだよな。心のままに、素直にならないとな」
蒼は小さく深呼吸をした。
その様子に、てんが「どうしたんだろう」と不思議そうに小首を傾げる。
蒼はゆっくりと口を開いた。
「さっきの言葉、今の僕には相応しくなかった。別の言葉があったよ」
「蒼くん、本当にどうしたんですか?」
「てん。改めて言うのもおかしいかもしれないし、今更かもしれないけれど……いつも感謝してる。ありがとう」
突然の真っ直ぐな言葉に、てんは一瞬、思考を停止させた。
「……いいえ。さっきも言いましたが、私がしたくてしているだけですから」
「それでもだよ。僕は心のどこかで、それを当たり前のことのように感じていたのかもしれない。……いろいろ尽くしてくれるてんに、甘えていたんだ」
「蒼くん……。そっか。なんだか、蒼くんも色々と吹っ切れたみたいですね。そんな雰囲気を感じます。バイトの先輩とお話しして、収穫があったようで良かったです」
蒼は今日の出来事を、大まかにではあるが、てんに話して聞かせていた。
「うん。過去のこと、弥生のこと……。そして、明日へ向かうために」
蒼は右目を手で覆い、それから痛む左足へと視線を落とした。
そして、決意の宿った眼差しでてんを見つめる。
「……弥生に、真実を打ち明けるよ」
「そうですか。当事者ではない私に、止める権利はありません。ですが……」
てんは、蒼の心すべてを包み込むように、優しく彼を抱きしめた。
「真実を本人に打ち明けるのは、弥生ちゃんもそうですが、蒼くんにとっても辛いことだと思います。私にはありきたりで安っぽい言葉しか言えませんが……頑張ってくださいね」
蒼は無言で、深く頷いた。
「私にできることがあったら、遠慮なく言ってください。何でもしますから」
「うん、ありがとう。その時は頼らせてもらうよ。よろしくな、てん」
てんはゆっくりと蒼から体を離し、悪戯っぽく微笑んだ。
「私の元気を蒼くんに分けました。どうですか? 元気、出ましたか?」
「……ありがとう。おかげで元気が出たよ」
◆
その日の夜。
蒼は弥生の父・凌二に連絡を入れ、自身の決意を伝えた。
凌二は重みのある声で「わかった。二人で待っている」とだけ告げ、通話は終了した。
蒼はスマホをテーブルに置くと、窓の外へと視線を向ける。
漆黒の夜空の下、外の世界ではしんしんと、静かに雪が降り続いていた。
to be continued.




