70-16
蒼と別れた久志は、ロープウェイ乗り場まで戻ると、ポケットからスマホを取り出した。
家を出る前に届いた唯からのメールを、確認のために今一度読み返す。
『本当の巫女ノ丘で待っています』
短い文面をなぞり、再びスマホをポケットに沈めて歩き出した。
ロープウェイには乗らず、そのまま脇の道をしばらく下っていく。
やがて、「立入禁止」の札が下げられた縄が現れた。
その前には、メールの差出人であり、久志の想い人である唯が待っていた。
「……久しぶり。って言っても、昨日会ったばかりなんだけどね」
最初に言葉を紡いだのは唯だった。久志もそれに続く。
「そうだな。でも、ずいぶん前のことのように感じるよ」
「久志くんと付き合っていた頃が、本当に昔のことみたい」
唯の口から出た「付き合っていた」という過去形が耳に刺さったが、久志は平然を装った。
「……それで、どうしてこの場所を指定したんだ?」
「以前、久志くんに聞いた場所だったし……ご先祖様ゆかりの場所なら、お互い本音で話せるかなって、そう思ったの」
「わかった。……中に入るか?」
「えっ、いいの?」
「ああ。ここら一帯は安倍家の所有地だ。実際は祖母の名義なんだけどな」
「いずれは久志くんのものになるんだね」
「万が一怒られるときは俺一人だ。唯ちゃんのせいにしたりしないから、安心してくれ」
「なんで? そこは一緒に怒られようよ」
久志は、唯とのいつものやり取りに、皮肉にも少しだけ喜びを感じていた。
「それじゃ、行こう」
久志が縄を跨ぎ、唯がそれを潜る。
木々が生い茂る獣道を進むと、すぐに一人歩くのがやっとの、切り立った断崖絶壁の道へと変わった。
「聞いていたより危険だな。これ以上はやめておくか?」
「危なそうだけど、伝説の場所、見てみたいかな。それに、誰かに聞かれたら嫌な話もするから……」
「……そうか。わかった。足元に気をつけて進もう」
崖側には鎖が張られ、内側には手摺代わりの綱が巡らされている。
二人はその綱を握り、慎重に歩を進めた。
険しい道を抜けた先は、少し開けた場所に出た。
そこには石を積み重ねた祠のようなものがあり、一番上の岩には錆び付いた小さな鐘が乗っていた。
「ここが……なんだか、寂しい場所だね」
鎮魂のためとはいえ、そこにはどこか物悲しい雰囲気が漂っていた。
「そうだな。俺も初めて来たときはそう思った」
唯は祠の前で両手を合わせ、静かに目を閉じた。
「突然、どうした?」
「神聖な場所でしょ。お参りしとかないと」
「……なるほど、そうだな」
久志も隣に並び、共に手を合わせた。
しばらくすると、無風だった丘にふっと風が吹き抜けた。
「……風? これは、歓迎してくれてるのかな。それとも、違うのかな」
「どうだろうな。……もしかしたら、『頑張れ』って言ってるのかもしれない」
「だと、嬉しいな」
唯が小さく深呼吸をする。
その姿に、久志の緊張が高まった。
「久志くん。……久志くんは唯のこと、本当に好きなの?」
「ああ。好きだよ」
久志は迷いなく答えた。
「久志くんを待っている間に、いろいろ考えてたの。優くんや久志くん、それから花桜梨ちゃんのこと。改めて考えていたらね……唯、気づいたの。唯は久志くんのことを好き……」
その言葉に、久志の胸に期待が込み上げる。
しかし、それは次の瞬間に打ち砕かれた。
「……ううん。好きでいなきゃいけないって、思い込んでいただけなのかもしれない」
予想もしなかった言葉に、久志は呆然と立ち尽くす。
「唯はずっと、優くんの代わりを探していたのかも。だから、唯の久志くんへの気持ちは偽物。優くんに向けるべきものだったんだって、そうわかっちゃった」
「……どうして、そんなことをする必要があるんだ?」
久志はかろうじて言葉を絞り出した。
(ごめんね、久志。今から、傷つけることを言うから。ごめんね)
唯は心の中で詫びながら、言葉を繋いだ。
「ここに来る時も、優くんに相談したんだよ。でもそれは全部、優くんに対する建前。優くんは自分の道を見つけたから、唯もそうだよって、よく見せたかったんだと思う。……そう。唯は優くんと出会った頃から、今でもずっと彼が好きなんだって、改めて気づいたの。……ううん、再確認できた。唯、本当は嫌な女の子なんだよ。久志くんが思っている以上に。……だって、花桜梨ちゃんが死んじゃった時、心の中で『これで邪魔者がいなくなった』って喜んでる自分がいたんだよ? これで優くんは唯を見てくれるって。……でも、現実は違った」
唯は震える声で続けた。
「優くんの中の花桜梨ちゃんの存在は、唯なんかが入り込めないほど大きかった。優くんは抜け殻のようで、まるで死ぬのを待っているみたいだった。彼には花桜梨ちゃんじゃなきゃダメなんだって。……だったら、唯に何ができるんだろう。そう考えたの。答えは一つしかなかった。優くんに、笑っていてほしい。それだけ。唯の行動は全部、優くんのためなの。優くんが花桜梨ちゃんを愛しているように、藤村唯は高橋優也を愛してる。それは昔も今も変わらない。だから、久志くんとはこれ以上付き合えません。友達に戻ろう。……ううん、それじゃ都合がよすぎるよね。出会った頃に戻ろう、安倍くん。ただの『友達の知り合い』に」
(私が今言っていること、全部、嘘だから。優くんへの気持ちなんて、もう整理できてる。切り替えられてるんだよ)
唯の本心を知る由もない久志は、我慢の限界を越え、感情を露わにした。
「昨日もそうだった! また勝手に自己完結するなよ! 勝手に終わらせようとするな! 君が伝えたいことはわかった。それが君の本音なんだろう。何よりも優也が優先なんだろう。……だけど、それでも、俺の気持ちは無視なのか?」
久志は大きく息を吐き、まっすぐに彼女を見た。
「昨日、寝る前に考えていたんだ。どうして俺は藤村唯を好きになったのか。……きっかけは些細なことだった。優也の幼馴染で、あいつと同じ目をしていたから。でもそれだけじゃない。優也といる時、無理して笑って、何かを演じているような君が気になった。それから君を意識するようになって、気がついたら……君のすべてをひっくるめて、好きになっていたんだ」
(久志、ありがとう。そこまで言ってくれて本当に嬉しい。それでも……)
「だったら、どうして? どうして他の女の子と仲良くするの? 唯が不安になると思わなかった?」
(大好き。大好きだよ、久志。誰にでも分け隔てなく優しい久志がいいのに)
「だったらその時に言ってくれればよかったじゃないか!」
(ねえ、私の嘘に気づいて……。ダメ。そんなことしたらダメ。一人で背負うって決めたでしょ。久志のためだと思えば、耐えられる……)
「唯はそんなに器用じゃないから。それに、安倍くんは優くんじゃない。優くんの代わりなんて、やっぱりいないんだよ。……それは安倍くんに失礼だし。だから、終わりだよ」
(久志を傷つけた分、それ以上にたくさんの思い出と『ありがとう』をもらったから。きっと耐えられる。これは、私のついた嘘への罰なんだ)
「……俺は、もう何も言えないじゃないか。君の気持ちを変える言葉を、俺は持っていない。……自分が不甲斐ないよ」
(ううん、違うよ。久志はすごいよ。私を好きになってくれてありがとう。私も久志が大好き。愛してる。……それでも、ダメなの。私は久志の隣にいちゃいけない。だから、さよなら。バイバイ……だよ……)
「それじゃ、ね」
唯が背を向け、久志の前から姿を消した。
一人残された久志は、ただ呆然と、冷たい風の中に立ち尽くしていた。
◆
ロープウェイに乗り込んだ唯は、スマホを取り出し、自宅へとリダイヤルした。
「……ちゃんと、終わったよ。今から帰る、から……」
通話を切ると、唯はその場に座り込んだ。
ずっとせき止めていた感情が、一気に押し寄せてくる。
(優くんも、花桜梨ちゃんを失った時はこんな気持ちだったのかな。胸が苦しくて、張り裂けそう……)
周囲には数人の観光客がいるだけで、久志も優也もいない。
(もう、泣いてもいいよね。ずっと我慢してたんだから、もういいよね)
決壊したダムのように、唯は声を上げて泣き出した。
観光客たちが何事かと訝しげに眺める中、彼女はただ泣き続けた。
(自分が自分でいられる場所。素直になれた場所。それを自ら手放した。そうしないと、お互いに破滅してしまうから。……だって、私は……)
to be continued.




