63-09
不意に覚えのない息苦しさを感じ、蒼の意識は一気に覚醒した。
起き上がろうと体に力を込めるが、何かが圧し掛かっていて身動きが取れない。
顔を覆う異物が呼吸を妨げているのだと確信し、必死に顔を振ってそれを振り落とした。
べちゃりと湿った音を立てて横にずれ落ちたのは、冷たく絞られた濡れタオルだった。
「濡れタオル……? どうして……」
状況が飲み込めず困惑する蒼を許さないと言わんばかりに、聞き覚えのある声が突き刺さる。
「……そのまま死んでいた方が、よほど楽でしたよ」
体が起こせなかった理由__それは、弥生が蒼の体に馬乗りになっていたからだ。
「苦しまずに死ねるなんて、思われては困ります」
弥生は事務的とも言えるほど淡々と口にする。
しかし、その瞳にはどす黒い復讐の炎が宿っていた。
それはまさに、獲物を前にした飢えた獣そのものだった。
「弥生……っ」
「私の名前を呼ばないで。汚らわしい……気安く口にしないで!」
叫びと共に、弥生の両手が蒼の細い首を捉え、容赦なく締め上げ始める。
「あ……がっ、……」
視界に映るのは、憤怒に歪んだ弥生の表情。
怒り、憎しみ。
そのすべてが、鋭い刃となって蒼に向けられている。
こうなるように仕向けたのは、他ならぬ彼自身だ。
この憎悪を受け入れることこそが自分の宿命だと理解していた。
けれど、だからこそ、今はまだ死ぬわけにはいかない。
「……っ!」
蒼は生存本能を振り絞って抵抗した。
渾身の力で弥生を突き飛ばすと、彼女の体は大きな音を立てて壁に激突する。
蒼は荒い息を吐きながら上体を起こし、「ごめん」と消え入るような声で謝罪した。
だが、その謝罪が弥生に届くことはなかった。
彼女は床に落ちていたものを手当たり次第に掴み、蒼へと投げつける。
「死んでよ……死んで、死んでっ……! なんで……ママがいないのに、あんたが生きてるのよ!」
本、鞄、タオルに衣類。
なりふり構わず、泣き喚きながら投げ続ける。
「……なんで……笑ってくれないの。なんで怒ってるのよ、ママ……っ!」
蒼が飛んでくるものすべてを無抵抗に浴びていたその時、部屋の扉が激しい音を立てて跳ね上がった。
「……あなた、何をしているのですか!」
騒ぎに気づき、駆け込んできたのはてんだった。
偶然にも泊まっていた彼女が、異変を察して飛び込んできたのだ。
突然の乱入に弥生は一瞬目を見開いたが、すぐに状況を察したように、氷のような言葉を吐き出した。
「……あぁ、そういう、ことですか」
弥生は足元に落ちていたカッターナイフを拾い上げた。
静まり返った部屋に、カチカチと刃を繰り出す乾いた音が不気味に響き渡った。
「ママが死んで私たち家族が苦しんでいるのに、いい気なものね!」
弥生の刺々しい言葉を、てんが真っ向から遮った。
「……何を勘違いしているのですか?」
「勘違い? 私には、あんたが焦っているようにしか見えないけれど。この現状を見て、そう思わない人間なんていないわ!」
「確かに、そう見えるのでしょう。ですが、それは私の一方的な片想いでしかありません!」
弥生はゆらりと立ち上がった。
その手には、白く光る刃を剥き出しにしたカッターナイフが握られている。
「はあ? そんな言い訳を聞かされたところで、私には関係ない! 今、目の前にある現実がすべてなのよ!」
「その手に持っているもので、どうするつもりなのですか?」
「そうやって、聖女ぶった喋り方をするあんたが反吐が出るほど嫌いなのよ!」
ベッドから立ち上がった蒼が、弥生に向かって声を荒らげた。
「弥生! いい加減にしろ! お前の仇は僕だろう! てんは関係ないはずだ!」
「そうね……忘れるところだったわ。あんたを消せば、必然的にアイツも大切なものを失う。私と同じになる。同じように傷つく。……ハハッ、それはとても素敵なことよね」
蒼の言葉をなぞるように、弥生の標的がてんから蒼へと切り替わった。
「どうした? その手に持っているものは……ただの飾りか?」
蒼が挑発を投げると、弥生は一歩、また一歩と距離を詰め、次の瞬間には躊躇なく走り出した。
蒼は時間を稼ごうと回避を試みたが、焦りからか脚がもつれ、その場に倒れ込んでしまう。
「弥生、やめなさい!」
倒れ込みながらも、蒼は迫り来る弥生を右足で払い、彼女を転倒させた。
しかし、弥生の執念は止まらない。
這いずりながら蒼に飛びかかると、振り下ろされたカッターナイフが蒼の左脚を深々と貫いた。
「蒼くん! 弥生、自分が何をしたかわかっているの!」
弥生がナイフを引き抜き、再び突き立てようとした瞬間。
「……ごめん」
蒼は短く謝罪を口にすると、右足で弥生を全力で蹴り飛ばした。
彼女の体は壁に叩きつけられ、低いうめき声を残してそのまま意識を失った。
弥生が起き上がってこないことを確認し、蒼は「ふぅ……」と大きく息を吐いた。
その姿を見たてんが、血相を変えて駆け寄る。
「蒼くん! 大丈夫ですか!」
「大丈夫だよ。ほら、左だから」
「左……? あっ、そうでしたね」
「それより、てん。スマホを取ってくれるか?」
「えっ、あ、はい」
理由が飲み込めないまま、てんは言われた通りヘッドボードからスマホを手に取り、蒼へと渡した。
「どうぞ。ですが、どうして今……」
「弥生をこのままにはしておけない。今から、弥生のおじさんに連絡する」
気絶している弥生を横目で捉え、てんは納得したように頷いた。
「……そうですね。確かに」
蒼は床に落ちていた制服のネクタイを拾い上げ、弥生を見つめた。
そして、てんにある頼み事をする。
「てん、すまない。念のために、そのネクタイで弥生の腕を縛っておいてくれないか」
「わかりました。目を覚まして、また暴れ出さないとも限りませんものね」
てんは言われた通りにネクタイを受け取ると、弥生の背後で両手首をきつく縛り上げた。
その間に蒼はスマホを操作する。
真夜中に連絡を入れる無作法が一瞬頭をよぎったが、もはや事態は一刻を争う。
蒼は震える指先で、弥生の父親へのコールを鳴らした。
to be continued.




