62-08
久志はハイランドでのバイトを終え、更衣室で着替えている最中にスマホの通知に気づいた。
画面に表示されたのは、唯からの通知。
昼間に送ったメールへの返信だった。
拒絶されることも覚悟していた久志にとって、返信が届いたという事実そのものが驚きだった。
小さく深呼吸をしてから通知を開くと、そこには短い一文だけが記されていた。
『二人の思い出の場所で待っています』
「思い出の場所……あそこだよな」
久志は慣れた手つきで写真フォルダを開き、アルバムから唯との写真を選択した。
映し出されたのは、一年前の自分たち。
並んで笑い合う二人の背景には、静かな湖面が広がっていた。
(……俺たちの関係が始まった、あの場所だ)
久志は茨堂陸島駅からリク電に飛び乗り、十四駅先の「姫ノ湖」駅で降りた。
改札を抜けてすぐの自販機で、ホットコーヒーとホットココアを購入する。
「あつっ……設定温度、高すぎだろ」
熱を帯びた缶を二つ上着のポケットにねじ込み、道なりに歩くこと約十分。
駅名の由来でもある姫ノ湖のほとりに到着した。
湖の周囲には立ち入りを制限するための木製の柵が巡らされている。
久志は一歩一歩、記憶を確かめるように踏みしめて歩いた。
そして、あの時と同じ場所に辿り着く。
二人の思い出が始まったその場所に、ひとつの人影__唯が待っていた。
「ごめん、待たせたか?」
久志は努めて冷静を装いながら声をかけた。
「ううん、唯も今来たところだから」
唯はそう言った瞬間、彼女が嘘をついていると確信した。
彼女には嘘をつくとき、無意識に一人称が唯と呼ぶ口癖がある。
本当はどれほど前から、この寒空の下で待っていたのだろうか。
久志は胸が締め付けられる思いだった。
「久しぶり……だね」
「ああ。そうだ、これ。駅の自販機で買ってきた。少しは飲みやすい温度になってるかもな」
久志はポケットから温まったココアを取り出し、唯の手へと渡した。
「ありがとう。駅の自販機って、熱すぎるか冷たすぎるかの両極端だもんね」
「微調整してくれって感じだよな。あれじゃ『あったか〜い』じゃなくて『あつ〜い』だよ」
「ふふっ……久志は相変わらずだね。面白くて、一緒にいると楽しい」
少しだけ和んだ空気に、久志は意を決して本題を切り出した。
「唯、すまなかった。誤解させるような真似をして……」
「……ううん、唯の方こそごめんなさい。久志の言葉を聞こうともしないで、ずっと逃げて、避けてたから」
「いや、そうさせてしまったのは俺だ。俺の軽率な行動が、唯を不安にさせたんだ」
「信じきることができなかった唯にも、落ち度はあるよ」
唯の声は淡々としていた。
しかし、その言葉の端々には、揺るぎない決意のようなものが滲んでいる。
久志はその気配に、言いようのない不安を覚えた。
「唯……?」
「わかったの。唯は、まだまだ子供だったんだって。無理して背伸びして、大人ぶってただけなんだって……」
見つめる唯の瞳には、過去を断ち切ろうとするような、静かで冷たい光が宿っていた。
しかし、久志は、目の前の現実を食い止めようと必死に言葉を絞り出した。
「俺が……俺の行動が追い詰めてしまったのなら、何度でも謝る。ごめん。だから、お願いだ。そんな風に言わないでくれ」
「ううん。だからね、久志、唯たち、終わりにしよう。それがお互いのためだと思うから」
唯の口から放たれたのは、決定的な別れの宣告だった。
しかし、久志はその言葉を飲み込むことができず、拒絶するように声を荒らげた。
「勝手に一人で完結させないでくれ! 俺の気持ちはどうなるんだ? 唯を好きな俺の気持ちは、どうだっていいのか?」
「唯を好きになってくれたこと、本当に感謝してる。ありがとう」
「唯! 俺はまだ……!」
「いいの。もう、無理しなくていいんだよ。唯に合わせようとしなくていいの」
「無理なんてしてない! 唯と一緒にいるのが楽しくて、だから……!」
「バイバイ、久志くん」
「くん」付けの呼びかけ。
それは、恋人からただの知人へと引き戻された、彼女なりの境界線だった。
唯はそのまま背を向けると、迷いのない足取りで歩き出した。
久志は呼び止めようとしたが、まるで呪縛をかけられたかのように喉が震え、声が出ない。
この背中を見送れば、もう二度と元には戻れない。それだけは痛いほど理解できた。
(……呼び止めたところで、決意した彼女に、俺は何と言えばいいんだ)
一度固まった意志を動かすのは、容易なことではない。
夜の静寂に唯の足音が消えていく。
一人残された久志は、自分自身への激しい怒りと不甲斐なさを叩きつけるように、近くにあった木の幹を殴りつけた。
「あああああ!!」
鈍い衝撃と共に、拳からじわりと血が滲む。
「くそっ……俺は何をやってるんだ! 唯の心の痛みは、こんなもんじゃない。もっと痛くて、苦しかったはずだ。なのに、どうして俺はもっと大切にしてやれなかった……!」
もう、時計の針を戻すことは叶わない。
突きつけられた事実を受け入れるしかなかった。
誰のせいでもない。
これは、久志自身が招いた結末でしかないのだ。
「……そうか。大切にしている『つもり』になっていただけだったんだ。結局、俺は自分のことしか考えていなかった。相手がどう思うかなんて、これっぽっちも……」
呆然と立ち尽くす久志の脳裏に、走馬灯のように唯との記憶が流れていく。
笑い合った日々、触れ合った温度。
そのすべてが、今はもう遥か遠い昔の出来事のように感じられた。
「……これじゃ、見限られて当然だよな」
溢れ出した思い出の最後に、久志は心の中に残った言葉をそっと呟いた。
「……今までありがとう。唯ちゃん」
その声が彼女に届くことはなかったが、それは偽りのない、心からの感謝の言葉だった。
to be continued.




