61-07
てんの手料理で夕食を終え、彼女がキッチンで洗い物をしていたときのことだ。
蒼が時計を確認すると、時刻はすでに二十一時を回ろうとしていた。
「てん、残りはそのままでいいよ。夜も遅いし、近くまで送っていく」
「うーん。今日はお泊まりしようかなって思っていたのですけど、ダメですか?」
てんは洗い物の手を止めることなく、さらりと言ってのけた。
「……両親が心配するだろ。いくら幼馴染とはいえ、年頃の男女なんだし」
「大丈夫ですよ。私の両親、蒼くんのこと信じてますから」
「いや、そういう問題じゃなくて。僕だって一応は男なわけだし……」
「それは、蒼くんが私を押し倒すかもしれない、ということですか?」
「そういうわけじゃないけど!」
「蒼くんは女の子に興味がないのですか?」
「いやいや、話が飛躍しすぎだろ」
「では、私を襲いますか? 襲いませんか?」
「ちょっと待て、論点が完全にズレてるぞ」
詰め寄るようなてんの言葉に、蒼がたじろぐ。
てんはくすくすと喉を鳴らした。
「ふふっ、ごめんなさい。からかいすぎました」
蒼は一度深呼吸をして、本題に引き戻す。
「……で。てんの両親は何て言うんだ?」
「そこは大丈夫だと思います。私の両親、放任主義ですから。……よし、これでおしまいっと」
てんは最後の皿を乾燥機に入れ、スタートボタンを押すとキッチンから出てきた。
「放任主義って……年頃の娘を心配しないのか?」
「一応、気にはかけてもらってますよ。でも『これはお前の人生だから』って。親が介入するのは最後の最後だって言われました」
「……まあ、てんが良いなら、僕がこれ以上言うことはないけど」
「ありがとうございます」
「最後に一つ。着替えとか、うちには用意がないけどどうするんだ?」
「あ、それなら大丈夫です。準備してきましたから」
てんはソファーに置いていた鞄を「ここに入っています」と言うようにポンポンと叩いた。
(確信犯だ……最初からそのつもりで来たんだな)
蒼は少しだけ頭痛を覚え、こめかみを押さえた。
◆
同時刻、御堂家の自宅。
弥生は自室で一枚の写真を見つめていた。
そこには幼い頃の自分と、その両脇で幸せそうに笑う父と母の姿がある。
しかし、今の弥生の顔に、あの頃のような純粋な笑顔は微塵もなかった。
手鏡を取り出し、無理に口角を上げようとしてみる。
だが、筋肉は強張り、映し出されるのはひどくぎこちない、歪な表情だけだった。
「ママ……どうしていなくなっちゃったの?」
ぽつりと溢れた問いかけに、返る言葉はない。
部屋には冷たい静寂だけが横たわっている。
弥生が目を閉じると、記憶の中の母親が浮かび上がる。
「……どうして、笑ってくれないの?」
脳裏にいる母親は、ただ静かに娘を見つめるだけだ。
喜ぶことも、怒ることもなく、ただそこに佇んでいる。
「そうよ。アイツが生きているから、ママは笑ってくれないんだわ。ママを奪ったアイツさえいなくなれば……きっと、また笑ってくれるはず」
弥生は熱に浮かされたように自己完結すると、椅子に掛けていたコートを羽織り、部屋を飛び出した。
階段を駆け降りてリビングに入ると、テレビボードの横にある三段ボックスから、猫のストラップが付いた鍵を掴み取る。
玄関へと向かい、寝静まった父親に気づかれないよう慎重に靴を履いた。
静かに鍵を開け、冷え切った夜の空気の中へと、彼女は消えていった。
to be continued.




