60-06
蒼は自宅の最寄り駅である茨堂陸島で降りると、街灯の心許ない光を辿るように歩き出した。
駅から十五分ほど進んだ住宅街の一角。
そこに建つ十階建てのマンション「レクシール」が蒼の家だ。
一人暮らしをしている、というよりは、結果的に一人暮らしになったという方が正しい。
元々は分譲マンションとして、蒼の両親が購入したものだった。
エレベーターで八階に登り、共用廊下の一番奥にある自室へと向かう。
すると、その玄関の前で小さく蹲る人影を見つけた。
「そんな格好をしてると、家出少女みたいだよ。てん」
声をかけると、てんは弾かれたように立ち上がり、「ちゃんとメール送ったんだよ?」と少し唇を尖らせた。
その言葉で、蒼はスマホをマナーモードにしたまま鞄に放り込んでいたことを思い出す。
「ごめん。鞄に入れたまま気づかなかった」
「ふふっ、だと思いました」
「……とりあえず、外は寒いだろ。中に入ろう」
蒼が鍵を開けて招き入れると、てんもその後に続いた。
リビングに入り、蒼がソファーに鞄を置くと、てんは迷いのない足取りでキッチンへと向かう。
「それで、こんな時間にどうしたんだ?」
「ご飯、まだだよね?」
蒼が頷くのを確認すると、てんは嬉しそうに微笑んだ。
「わたしもまだなんだ。今から作るから、一緒に食べよ」
彼女は手慣れた様子でコートを脱ぐと、何度も使い慣れたキッチンで手際よく料理を始めた。
その甲斐甲斐しい後ろ姿を眺めながら、蒼の胸には感謝と共に、言いようのない不甲斐なさと苛立ちが込み上げてくる。
「……てんに甘えてばかりだな」
独り言のような呟きだったが、キッチンから予想もしない返辞が届いた。
「甘えていいのですよ。わたし、その方が嬉しいんです。だって、それは私のことを頼ってくれている証拠ですから」
「てん……」
「あの時は、見ていることしかできなかった。でも、少しでも蒼くんの役に立ちたくて、お料理も掃除もお洗濯も、必死に頑張ったんです」
てんは包丁を置くと、真っ直ぐに蒼を見つめた。
「これからも悲しくなったり、悩んだりすることはあると思います。でも、どんなに躓いて転んでも、わたしは何度でも蒼くんに手を差し伸べます。……だって、好きな人には笑っていてほしいから」
「それって……」
思わず溢れた本音に、てんはハッとしたように両手を振った。
「あ、ごめんなさい! 今のは忘れてくださいっ」
「……ありがとう。てんは優しいよ。善意でやってくれてるって分かってるつもりなんだ。でも、考えてしまうんだ。僕がいなければ、こんなことにはならなかったんじゃないかって」
「それは……ここから居なくなるってこと? それとも……」
「……たぶん、後者の方かな」
蒼の消え入るような言葉を聞いた瞬間、てんはキッチンから飛び出してくると、蒼の目の前にぴたりと立った。
「目を閉じてください」
「えっ? どうして……」
「早く!」
気圧されるように目を閉じると、次の瞬間、左頬に鋭い衝撃が走った。
「痛いですか?」
蒼は赤くなった頬を押さえながら、ゆっくりと頷く。
「死んでしまったら、もう感じることもできない痛みです。それは、生きている証拠。……それでも、もし蒼くんが死を選ぶのなら、わたしも後を追います」
蒼は驚愕して目を見開いた。
「わかってます、脅しですよね、これ、でも、それくらい蒼くんが好きなんです。あなたのいない世界で生きていても、意味がないから」
「……でも、僕よりいい人は他にいっぱいいるだろ?」
「わたしは、蒼くんのお世話をしたいんです。朝は『いってらっしゃい』って送り出して、お掃除をして、洗濯物をお日様に当てて……お昼には、何を作ったら喜んでくれるかなって考えながらお買い物をする。夜は笑顔で『おかえりなさい』って出迎える。そんな風にずっと一緒にいたいんです。雨の日も、晴れの日も、雪の日も」
てんは逃がさないとばかりに、蒼の体に腕を回した。
「蒼くん、あたたかいです。ほら、心臓がどくどく動いてます。生きたいって言ってますよ」
「……そうなのかな。僕は、生きていたいのかな」
「そうですよ。死ぬのが怖くない人なんていません」
「……てん、ごめん。僕は、弱気になってた。自分で覚悟して決めたはずなのに。ごめん」
「弱音を吐いてもいいんです。吐いてくれないと、逆に心配で堪りません」
「……ごめん…」
「違います。わたしは謝罪が欲しいのではありません」
てんの温もりに包まれながら、蒼は震える呼吸を整え、ようやく一言を絞り出した。
「……うん、わかった。ありがとう」
to be continued.




