57-03
蒼は、保健室のベッドの上で目を覚ました。
(僕は確か、階段から落ちて……それから)
記憶を手繰り寄せながら上体を起こそうとした瞬間、後頭部に鋭い痛みが走る。
「いっ……!」
痛みは一瞬だったが、壁に頭を打ち付けた衝撃を思い出すには十分だった。
疼く場所を摩りながら周囲を見渡すと、ベッドの隅に頭を預けて眠りこけているてんの姿が目に入った。
蒼が起き出した気配を察したのか、彼女は重たそうな瞼を擦りながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……あ、蒼くんっ。おはよう、ございます……」
「ああ、おはよう」
蒼の返答を聞きながらも、てんはまだ夢の淵を彷徨っているようだった。
「蒼くんが……目の前にいますっ……」
「当たり前だろ。そろそろ、しっかり起きてくれないか?」
「変な蒼くんです。わたし、ちゃんと、起きてますよぉ……」
てんはふわふわと頭を揺らしながら反論するが、その姿に説得力のカケラもない。
「……でも、あれぇ。なんで蒼くんが、わたしの部屋にいるんですかぁ……?」
「ここは学校だ。君の部屋じゃない」
「がっこう……カッコウ……?」
小首を傾げるその姿は、どこか小動物を連想させて微笑ましい。
蒼は彼女が完全に覚醒するのを待って、改めて「おはよう」と告げた。
「……あ! おはようございます! あのっ、もしかして今の……見てました?」
「見たというか、普通に会話したぞ」
「ううっ……!」
恥ずかしさに耐えかねたように、てんは顔を真っ赤に染めて俯いた。
「いつもはしっかりした生徒会長のイメージが強いけど、寝ぼけてるてんも新鮮で良かったよ」
「も〜! 寝ぼけ顔なんて乙女の秘め事なんですから、もう少し気を使ってください! あっ……」
てんは何かを思い出したように声を漏らした。
「どうした?」
「蒼くん、今日はアルバイトの日ですよね? 頭を打っていますし、一緒に帰りたいなと思っているのですが……」
「バイト? 今、何時だ」
窓の外は、燃えるような夕焼けに染まりつつあった。てんが左腕の腕時計を確認する。
「もうすぐ十七時です。アルバイトは何時からなんですか?」
「十七時からだ」
「……今すぐじゃないですか! 事情を説明して、お休みをもらったらどうですか?」
「そうだな。バイト先に電話するから、少し静かにしててくれるか」
蒼はポケットを探り、自分のスマホがないことに気づく。
「あ、スマホ……」
「あ、そうでした。テーブルに置き忘れていたので、届けに行こうとしたらあんなことになって……」
てんは上着のポケットからスマホを取り出し、蒼に手渡した。
「てん、ありがとう。助かったよ」
蒼はお礼を告げて受け取ると、履歴からバイト先へとリダイヤルした。
『お電話ありがとうございます。ファミリーレストラン・ハイランド鴨原店でございます』
「その声……もしかして久志くん?」
久志は蒼と同じ歳だが、入った当初から公私共にお世話になっているバイトの先輩だ。
蒼にとっては、頼れる兄のような存在でもあった。
『その声はアオザキか。どうした?』
「久志くん、店長はいるかな?」
『悪い、店長は今日、本社での会議だ。ラストにしか戻らないって言ってたな』
「そっか……」
『ま、この時間に掛かってくる連絡の内容は想像がつく。遅刻の連絡だろ。何かあったのか?』
「うん、実は……」
流石に「幼馴染に階段から突き落とされた」とは言えず、足を踏み外して頭を打って気絶していた、と少し嘘を交えて説明した。
『事情はわかった。とりあえず病院に行ってこい。話はそれからだ。店長には俺から伝えておくよ』
「ありがとう、久志くん」
『礼はいいから、気をつけてな。もし来られないようなら、俺のスマホの方に連絡をくれ』
最悪の事態まで想定した久志の言葉に、蒼は「ああ、助かるよ」と答えて通話を切った。
スマホを置くと、待っていましたと言わんばかりにてんが立ち上がる。
「では、参りましょうか!」
「……? どこへ?」
蒼がベッド脇の杖を手に取ると、てんは断固とした表情で言い切った。
「病院ですよ! 何かあるといけませんので、私が付き添います」
「いや、一人で行けるし、てんにも用事があるだろ?」
「断っても無理矢理付いていきますからね」
一歩も引かないてんの勢いに、いつものように蒼が折れた。
「……わかった。一緒に行ってもらえるかな?」
その言葉を待っていたてんは、今日一番の笑顔で答えた。
「はいっ、喜んで!」
(やった……! これで放課後も蒼くんと一緒にいられます!)
てんは背中を向けた蒼の後ろで、小さくガッツポーズをして喜ぶのだった。
to be continued.




