52-17 (過去編)
精密検査の結果、優也の身体に目立った異常はないと判断され、彼は静かに退院の日を迎えた。
唯一の懸念は、彼の記憶から「八重花桜梨」という存在が完全に欠落してしまったこと。
しかし、医師や家族、そして唯は、その空白を埋めることをあえてしなかった。
残酷な真実を突きつけるよりも、彼が穏やかに日常を取り戻すことを選んだのだ。
周りの人間がそれぞれの胸に「秘密」という名の重石を抱えたまま、季節は巡り、優也と唯は残された中学生活を平穏に、どこか他人事のように過ごして、無事に卒業の日を迎えた。
◆
卒業式を終え、喧騒に包まれる校庭。
優也は記念撮影の輪に加わることもなく、そそくさと校門を抜けた。
その手には、大切に扱うべき卒業証書が、所在なげに乱暴に丸められて握られていた。
「優くん! 待ってよー!」
背後から聞き慣れた唯の声が追いかけてくる。
優也は足を止めず、肩越しに振り返った。
「もう、すぐ帰ってなにするの? 最後の日なんだよ?」
「さあな。これと言ってやることもないし」
「みんなに挨拶しないの? お世話になった先生とか、同じクラスの子とか……」
「今生の別れってわけでもないだろ。同窓会だってあるだろうし、会おうと思えばいつでも会える。わざわざ行列に並んでまで言うことじゃない」
「冷めてるなぁ、優くんらしいけど……本当にそれでいいの?」
「いいんだよ。俺にはこれで十分だ」
二人は並んで歩き出す。
春の柔らかな日差しが、真新しい制服を脱ぎ捨てる彼らの背中を照らしていた。
ふと、優也が足を止めた。
導かれるように振り返り、三年間通った思い出の校舎を見上げる。
「……?」
優也は眉をひそめ、片手で目をこすった。
そしてもう一度、屋上のフェンスぎりぎりの場所を見上げる。
「優くん、どうしたの?」
「……いや。なんだかさ、あそこに羽根の生えた女の子が立っていたような気がして。真っ白な羽根を広げて、こっちを見て笑ってたような……」
「えっ?」
唯も驚いて同じ方角を見上げた。
しかし、そこには春特有の霞んだ青空が広がっているだけで、人影などどこにもない。
「……あるわけないよな。寝不足か、非科学的な幻想だ」
「ふふ、世界は広いんだから、案外いなくもないかもよ? 案外、近くで見てたりして」
「冗談はさておき、帰ろうぜ。腹減った」
優也は照れ隠しのように、唯を置いてさっさと歩き出した。
「もう、待ってってば! 置いてかないで!」
「早く来ないと置いてくぞ。サクサク置いてくからな」
優也のぶっきらぼうな背中を見つめながら、唯は走り出す前にもう一度だけ、誰もいないはずの屋上を見上げた。
そこには、自分たちをずっと見守ってくれていたであろう「親友」の気配が、確かに残っているような気がした。
(ずっと、見ててくれたんだよね。優くんを……私を。……ありがとう、花桜梨ちゃん。優くんのこと、これからは私がちゃんと支えるから。だから、安心して見ててね)
唯は深く一礼し、溢れそうになる涙を堪えて前を向いた。
そして、遠ざかる優也の背中を追いかけて、力いっぱい走り出した。
その時、二人の上空を強い春一番が吹き抜けた。
屋上には、誰にも気づかれることなく、一枚の真っ白な羽根がふわりと舞い、やがて光の中に溶けて消えていった。
to be continued.




