50-15 (過去編)
急激に深くなる湖底の断崖。
優也の身体は重力に引かれるように、静かに、そして深く、水面の下へと沈み込んでいった。
「……あ……」
冷たい水が鼓膜を圧迫し、視界が急速に青く濁っていく。
水の中に沈みながら、優也は最後に見つめた。
水面越しに揺れる光の向こう側、自分を待っているはずの花桜梨の姿を。
すると、水面を突き破って、まばゆい光を纏った彼女が舞い降りてきた。
白いワンピースの裾が水中で大輪の花のように広がり、彼女はまるであつらえたように優雅に、沈みゆく優也の元へと手を伸ばす。
(ああ……やっぱり、迎えに来てくれたんだな)
優也は安堵し、肺に残った最後の一片の空気を吐き出した。
二人の距離がゼロになり、水底で静かに抱き合う。
けれど、花桜梨の表情は、優也が期待していた「再会の喜び」ではなかった。
それは、胸が張り裂けるほどに悲痛で、慈愛に満ちた、別れの顔だった。
「……ゆう、や…………」
水の外よりもずっと鮮明に、彼女の声が脳内に直接響く。
「だめだよ。まだ、こっちに来ちゃ……」
花桜梨の透き通った指先が、優也の額にそっと触れた。
その指先から、冷たい水とは違う、熱を帯びた「何か」が流れ込んでくる。
「……忘れて。私のこと。私との、すべての時間を」
優也の目が驚愕に見開かれた。
(何を……何を言ってるんだ!? せっかく、やっと会えたのに!)
声にならない叫びを上げ、優也は必死に彼女の腕を掴もうとした。
けれど、水の中の腕は鉛のように重く、指先は彼女の体をすり抜けてしまう。
(嫌だ! 忘れたくない! 花桜梨を失うくらいなら、このままここで……!)
優也は激しく首を振った。
拒絶の意志を示すように、彼女を抱きしめようと藻掻く。
しかし、花桜梨は悲しげに微笑むと、さらに深く、彼の記憶の深淵へと指を沈めていく。
「ごめんね。でも……優也には、生きてほしいの。私のいない明日を、ちゃんと笑って……」
「やめろ……やめてくれ……っ!!」
優也の意識が、端から白く塗り潰されていく。
彼女と出会った日。
初めて手を繋いだ日。
一緒に笑った放課後。
あの日、交差点で飛び散った鮮血の記憶までもが、優しい光に包まれて消えていく。
最後に残ったのは、目の前で泣き出しそうな顔をして笑う、花桜梨の姿だけ。
「さよなら、優也。……大好きだったよ」
彼女がその唇を優也の額に寄せた瞬間、世界は完全に暗転した。
掴んでいたはずの幻は光の粒子となって霧散し、優也の意識は、底のない深い無へと堕ちていった。
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「優くん!!」
唯の叫びが湖面に木霊する。
直後、大きく広がっていた波紋の真ん中から、救助に飛び込んだ男性が、ぐったりとした優也の体を引き上げた。
その顔にはもう、あの日見た絶望も、先ほど浮かべた恍惚とした笑みもなかった。
ただ、すべてを失くした空白だけが、静かに刻まれていた。
to be continued.




