49-14 (過去編)
優也の自室、その四隅に溜まった淀んだ空気は、一歩足を踏み入れるだけで吐き気を催すほどの絶望に満ちていた。
カーテンを閉め切った暗がりのなか、優也はただそこにいた。
何かをするわけでも、何かを考えるわけでもない。
事故からどれほどの日数が経ったのか、それとも一秒も進んでいないのか、彼にはその感覚さえ失われていた。
心配して声をかける両親の声は、水底から聞こえる雑音のように遠い。
差し出される食事には一切手をつけず、ただ虚空を眺めるその姿は、生きながらにして死を待っているかのようだった。
いや、優也は明確に、花桜梨のいる場所へ逝きたがっていた。
そこへ、唯が訪れた。
両親が仕事で不在なのは分かっていた。
幼い頃、優也から教えてもらったスペアキーの隠し場所から鍵を拝借し、静かに家の中へ入る。
階段を上がり、見慣れた彼の部屋の前で足が止まった。
ドアの脇には、母親が用意したであろう朝食のトレーが、手付かずのまま冷え切って置かれていた。
「本当に、何も食べてないんだ……」
唯は一度深く深呼吸をし、意を決してノブを回した。
「優くん、入るよ」
両親から話は聞いていたし、ある程度の覚悟はしていた。
けれど、現実は想像を絶するほど残酷だった。
部屋の隅、優也は幽霊のように座り込んでいた。
頬はこけ、目は落ち窪み、かつての面影がないほど憔悴しきっている。
「……優くん」
そのあまりに無惨な姿に、唯は一瞬言葉を失った。
かけるべき言葉が見つからない。
けれど、今日ここに来たのは、彼を慰めるためではない。
唯は心を鬼にして、優也のそばに歩み寄った。
「……優くん、どうして花桜梨ちゃんのお葬式に来なかったの? ちゃんと、お別れしなきゃダメだよ。だからそんな風になっちゃうんだよ!」
「……ゆ、い……」
「優くんのそんな姿、花桜梨ちゃんは望んでないはずだよ!」
「……どうでもいい。花桜梨のいない未来なんて、どうでもいいんだ。オレには、もう何もない……」
「どうでもよくない! 優くんは今、生きてる! 死にたいなんて、生きたくても生きられなかった人への冒涜だよ!」
唯は優也の細くなった腕を強引に掴むと、拒絶する暇も与えず、半ば引きずるようにして部屋から連れ出した。
そのまま彼をリク電に乗せ、あの日々の断片が残る場所へと連れ回した。
リク電に揺られ、最初に降り立ったのは藍銅神社だった。
正月や祭りのたびに、三人で何度も訪れた場所だ。
「ほら、あそこで優くん、おみくじ引いて大凶だって騒いでたでしょ?」
唯の言葉に、優也は無反応を貫く。
参道に敷かれた砂利の音が、今の優也には骨を削る音のように不快に響いた。
花桜梨がここで何を祈っていたのか、それを想像するだけで胸が掻きむしられる。
次に唯が連れて行ったのは、壬生谷にあるミブヤクラウズだった。
以前、デートの約束をしていた大型商業施設だ。
明るいBGMと家族連れの笑い声が溢れる空間は、今の優也にとって毒でしかなかった。
あの日、ここに来るはずだった。
ここで新しい思い出を作るはずだった。
華やかなショーウィンドウに映る、生気のない自分の顔が酷く醜く見えた。
さらに唯は、幼い頃から何度も遊びに来た大型遊戯施設、スクイズランドへと彼を運ぶ。
三人の笑い声が染み付いたメリーゴーランドの前で、唯は足を止める。
「あの日、花桜梨ちゃんが一番はしゃいでたよね」
優也は唇を噛み締めた。
楽しければ楽しいほど、失った時の落差が彼を奈落へと突き落とす。
その後、学校の遠足の定番だった久野自然公園にも足を運んだ。
「もう飽きたよ」と文句を言いながら、それでも三人でお弁当を食べた芝生。
あの日、花桜梨が「また来ようね」と笑った場所。
その約束はもう、永遠に果たされることはない。
どこへ行っても、今の優也にとっては地獄でしかなかった。
景色の至る所に、花桜梨の笑顔や声が呪いのようにこびりついている。
最後にたどり着いたのは、姫ノ湖だった。
優也は、ただ茫然と姫ノ湖の湖面を眺めていた。
陽の光を反射してキラキラと輝く水面が、今の彼にはひどく眩しく、残酷に感じられた。
視界の端で、唯が自販機の方へ走っていくのが見える。
(……一人にしてくれよ)
そう毒づく気力さえなく、優也は重い瞼を閉じようとした。
その時、耳元でふわりと風が抜けた。
春の湿り気を帯びた、懐かしい花の香りが鼻先をくすぐる。
「……え?」
顔を上げると、少し離れた桟橋の先端に、一人の少女が背を向けて立っていた。
白いワンピースが風に大きくはためいている。
見間違えるはずがなかった。
あの華奢な肩、丁寧に手入れされた長い髪。
「花桜梨……?」
心臓が、痛いほどに跳ねた。
立ち上がろうとした足がもつれ、ベンチから転げ落ちそうになる。 優也はなりふり構わず、縋り付くように声を絞り出した。
「花桜梨! 花桜梨なのか!?」
少女がゆっくりと振り返る。
逆光の中に浮かび上がったのは、あの日、横断歩道で永遠に失ったはずの、穏やかな微笑みだった。
彼女は何も言わず、ただ優しく目を細めて、優也に手招きをしている。
「……生きて、たんだ。よかった、夢じゃなかったんだ」
優也の瞳に、久しく失われていた光が灯った。
足の痛みも、胸の苦しさも、すべてが霧散していく。
彼女がそこにいる、それだけで壊れていた世界が色彩を取り戻していくような錯覚に陥った。
「今、行くから……待っててくれ、花桜梨!」
ふらつく足取りで、吸い寄せられるように湖畔へと歩き出した。
冷たい水が靴に染み込み、ズボンの裾を重く濡らしていく。
一歩進むごとに、彼女との距離が縮まっていく。
「……あ、……ぁ……」
優也の顔には、この数週間で一度も見せなかった、安らかな笑みが浮かんでいた。
水は膝を越し、腰を叩き、ついには胸元まで迫る。
それでも、目の前の花桜梨は優しく微笑み、さらに遠くへと手招きを続ける。
「優くん! 何してるの!? 戻ってきて!!」
背後で唯が喉を潰さんばかりに叫び、水しぶきを上げてこちらへ走ってくる気配がした。
けれど、その必死な拒絶さえ、今の優也には遠い異世界の雑音にしか聞こえない。
(もう、いいんだ。……やっと、会えるんだな)
最後の一歩を踏み出した瞬間、足の裏から地面の感触が消えた。
急激に深くなる湖底の断崖。
優也の身体は重力に引かれるように、静かに、そして深く、水面の下へと沈み込んでいった。
ゴボリ、と大きな泡がひとつ、湖面に浮いては弾けた。
「……あ……」
冷たい水が全身を包み込み、視界が急速に暗転していく。
水の中に沈みながら、優也は最後に見つめた。
水面越しに揺れる光の向こう側、自分を待っているはずの花桜梨の姿を。
けれど、そこにはもう誰もいなかった。
あるのは、どこまでも深く、暗い、静寂だけ。
肺に残ったわずかな空気が口から漏れ出し、優也の意識はゆっくりと、泥のような闇の底へと溶けていった。
___
「優くん!!」
唯が必死に手を伸ばしたとき、そこにはもう、静まり返った湖面に広がる無情な波紋だけが残されていた。
投げ出された二本の缶ジュースが、主を失ったベンチの側で、虚しく転がっていた。
to be continued.




