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和翠の指が優也の手を握り返し、止まっていた鼓動が再び刻まれ始めたその瞬間、凍りついていた病室の時間が一気に動き出した。
「姉さん……? 姉さん!!」
一輝が、弾かれたようにベッドに駆け寄った。
先ほどまで壁を叩き、やり場のない怒りと絶望に喉を枯らしていた少年は、モニターに刻まれる不規則ながらも力強い鼓動の波形を凝視した。
それが現実のものだと理解した瞬間、彼は子供のように声を上げて泣き崩れた。
和翠の白く細い腕を、壊さないように、けれど二度と離さないという執念で握りしめる。
その手は、恐怖でまだ激しく震えていた。
「バカだよ……勝手に行こうとすんなよ! 犠牲になんてなってない!俺が、俺が勝手に姉さんを守りたかっただけなんだ。姉さんが笑ってくれるのが、俺の自慢だったんだよ……! 頼むから、もう二度と、置いていかないでくれ……っ!」
一輝の慟哭が病室に響き渡る中、少し離れた場所でその光景を呆然と見つめていたのは、桜の両親である桜雅と花梨だった。
二人は、娘の桜がしでかした事の重大さと、それによって失われようとしていた命の尊さに、ただただ震えることしかできなかった。
花梨は口元を両手で覆い、溢れ出す涙を止められずにいる。
桜雅はその妻、花梨の肩を抱き寄せながら、自分たちの娘が奪おうとした「生」が再び輝きを取り戻した奇跡に、深い懺悔と安堵を込めて頭を垂れた。
そして、入り口近くで魂が抜けたように座り込んでいた桜は、和翠の「生還」を信じられない思いで見つめていた。
自分の放った呪いのような言葉。
それが和翠を追い詰めたという罪悪感で、彼女の心は死んだも同然だった。
しかし、和翠が目を開け、かすかに優也の手を握り返したのを見た瞬間、彼女の瞳に色が戻った。
「……よかった。……よかった……っ」
桜はその場に崩れ落ち、顔を覆って号泣した。
彼女にとっての「救済」は、復讐を果たすことでも、優也を奪うことでもなかった。
自分が殺してしまったと思った、かつての憧れでもあった「お姉ちゃん」が、再び息を吹き返したこと__その一点だけが、彼女を地獄から引きずり上げたのだ。
優也は、和翠の手を握ったまま、一度だけ後ろを振り返り、桜と視線を合わせた。
そこには責めるような色はなく、ただ「これでいいんだ」と告げるような、静かな慈しみがあった。
一輝が、堰を切ったように和翠の腕にすがって泣きじゃくる。
その熱い涙が和翠の肌に触れ、彼女を現世へと繋ぎ止める鎖となっていた。
唯と久志も、こらえきれず病室へと足を踏み入れた。
「和翠さん……! 本当によかった……っ」
唯は溢れ出す涙を拭いもせず、親友である優也が守り抜いたその「生」の重みに震えていた。
隣に立つ久志もまた、強張らせていた肩の力を抜き、深く、長く安堵の息を吐き出した。
「……信じてたぞ、優也。お前なら、絶対に連れ戻すと確信してた」
久志は親友の背中を頼もしそうに見つめ、真っ赤になった目元を腕で乱暴に拭った。
二人の顔には、絶望の淵から生還した和翠への深い感動が刻まれていた。
病室が安堵と喜びに包まれる中、一人だけ、その温かな空気から弾かれたように身を震わせる影があった。
桜だった。
彼女は、和翠が生きていたことに救われながらも、同時に自分がしでかした取り返しのつかない罪の重さに、押し潰されそうになっていた。
家族や仲間たちが喜びを分かち合うその光景は、今の彼女にとってあまりにも眩しすぎた。
(……わたしに、あそこにいる資格なんてない)
桜は震える唇を噛み締め、誰にも気づかれないように一歩、また一歩と後ずさった。
そして、逃げるように、病室を飛び出していった。
その微かな足音と、彼女が背負った暗い影の揺らぎを、優也は見逃さなかった。
和翠の手を握りしめ、その温もりを確かめていた優也だったが、廊下へ消えていく桜の後ろ姿に、消え入りそうな危うさを感じ取った。
「……和翠先輩」
優也は和翠の耳元で、優しく、けれど決然とした声で囁いた。
「ごめん。……ちょっとだけ、行ってくる。すぐに戻るから」
優也は和翠の耳元でそう囁くと、名残惜しそうにその指先を離した。
和翠は、まだ焦点の定まりきらない瞳で優也を見つめていたが、彼の瞳の奥にある切迫した光を汲み取ったかのように、微かに、本当に微かにその指先に力を込めて彼を送り出した。
一輝が和翠の反対側の手を握り、唯や久志が歓喜の声を上げるその喧騒を背に、優也は静かに、けれど弾かれたように病室を飛び出した。
to be continued.




