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花桜梨は、ゆっくりと和翠へと歩み寄った。
その足取りは羽のように軽く、彼女が通った後の白い床には、微かな光の粒が残る。
「優也。和翠さんはね、ずっと自分を責めていたの。私の代わりに生きていることが、私からすべてを奪うことだって。自分は、私の人生を盗んだ泥棒なんだって」
花桜梨は、抜け殻のように座り込む和翠の隣にそっと跪いた。
和翠の瞳には何も映っていない。
ただ、そこにあるのは、自分という存在を完全に消し去ってしまった、空っぽな闇だけだった。
優也は、眩い光を放つ花桜梨を真っ直ぐに見つめ、静かに、けれど揺るぎない声で口を開いた。
「花桜梨。……俺は、君を愛してた。それは本当だ。君との時間は、俺の人生で一番大切な宝物だった。でも……」
優也の視線が、隣で震える和翠へと移る。
「今は、この心臓で生きている和翠先輩が好きなんだ。花桜梨の心臓が動かしている彼女じゃなく、必死に、不器用に、俺の隣で笑おうとしてくれた『彼女自身』に、俺は惹かれたんだ。……ごめん、花桜梨。俺は、今、和翠と一緒に未来を生きたい」
その告白を聞いた瞬間、花桜梨は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて、今までで一番穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「……そっか。よかった。優也がそう言ってくれるなら、もう大丈夫だね。私の心臓は、ちゃんと愛されるべき人のところで動いてるんだ」
花桜梨の身体が、淡い光に包まれながら、無数の真っ白な天使の羽へと変わっていく。
「和翠さん、聞こえた? 泥棒なんかじゃないよ。あなたは、優也に見つけ出された、たった一人の女の子なんだから。……私の大好きな人を、よろしくね」
羽の吹雪となって花桜梨が消えていくと、その静寂の中で、異変が起こった。
座り込んでいた和翠の姿が、揺らぎ、縮んでいく。
高校生の制服がぶかぶかになり、髪が短くなり……彼女の姿は見る間に、幼い小学生の頃へと戻っていった。
それは、彼女が病と恐怖に支配され、心を閉ざした頃の姿だった。
幼児化した和翠は、目の前にいる優也を見て、ひどく怯えたように身体を丸めた。 男性恐怖症という、彼女の魂の奥底に刻まれた傷が、むき出しのまま現れたのだ。
「……こないで。……さわらないで……」
小さな和翠が、震える声で拒絶する。 優也は彼女を怖がらせないよう、ゆっくりとその場に座り直した。
「和翠先輩。怖がらなくていいよ。……自分を否定しないで。先輩は、誰の人生も盗んでなんかいない」
「……うそつき」
小さな和翠の、震える唇から拒絶の言葉が漏れた。
その瞳には、深い悲しみと、自分を許せないという頑なな意志が沈んでいる。
「みんな……わたしのせいで。お母さんも、一輝も……わたしを守るために、自分の時間をなくして。……お父さんも、わたしを愛してるから、苦しんでる。……わたしさえいなければ、みんな、もっと自由に、もっと幸せになれたはずなのに!」
和翠は、繋がれた優也の手を振り払おうとして、声を荒らげた。
「花桜梨だってそう! あんなに優しくて、あんなにみんなに愛されてたのに……。どうして、わたしみたいな『壊れた方』が生き残っちゃったの? わたしの心臓が止まって、花桜梨が生き返るなら、それが一番いいに決まってる……! わたしは、誰からも望まれてない器なんだよ!」
その叫びは、彼女が幼い頃からずっと胸の奥に閉じ込めてきた、どろどろとした本音だった。
「先輩、それは違う。犠牲になったからじゃない。……愛してたからなんだよ。先輩が笑ってくれることが、彼らにとっての救いだった。我慢したんじゃなくて、先輩を守ることが、彼らの幸せだったんだ。そこには、ちゃんと愛があったんだよ」
優也の必死の訴えに、小さな和翠はさらに激しく首を振った。
「そんなの、優也くんの勝手な想像だよ……! だって、一輝はわたしのせいでやりたいことを諦めたんだよ? お母さんはわたしの前でだけ無理して笑ってるんだよ? 愛があれば、苦しくてもいいなんて……そんなの、綺麗事だよ! わたしの存在が、みんなを不幸にしてるっていう事実は、消えないんだもん!」
泣きじゃくる和翠は、自分の小さな胸をかきむしるようにして叫び続けた。
「優也くんだって、花桜梨がいた方が幸せだったはずだよ……。本当は、花桜梨に会いたかったんでしょ? なんで、わたしの手を握るの……? わたしなんか、ただの代わりでしかないのに……!」
優也は、振り払われそうになったその手を、より強く、壊さないように包み込んだ。
「もし先輩が自分を否定したら、俺と花桜梨が過ごした時間も、あいつが最後に選んだ決断も、全部否定することになってしまう。それは、俺にとって一番悲しいことなんだ。花桜梨が繋いでくれた絆があったから、俺たちは出逢えた。花桜梨との出会いそのものを否定しないでほしい。それは、今の和翠先輩を否定することと同じなんだから」
優也は、小さな和翠の目線に合わせて、より一層強く、けれど壊さないようにその手を包み込んだ。
「始まりは花桜梨だったかもしれない。でも、そのきっかけがなければ、俺は和翠先輩っていう、こんなに優しくて、一生懸命な女の子に出会えなかった。俺が今、こうして先輩の手を握りしめて、生きてほしいと願っているのは、花桜梨の身代わりとしてじゃない。不器用でも前を向こうとしていた、あなたという一人の女の子に恋をしたからなんだ」
優也は、涙で濡れた小さな和翠の頬を、指先でそっと拭った。
「だから、お願いだ。自分のことをただの器だなんて言わないで。先輩がその心臓で刻んできた一分一秒は、間違いなく先輩自身の人生なんだよ」
和翠の喉から、小さな嗚咽が漏れている。
「……あの日、花桜梨が先輩に繋いだのは、ただの臓器じゃない。未来なんだよ。その絆を、どうか誇りに思ってほしい。先輩が生きてることが、俺たちの希望なんだ」
その言葉が、和翠を縛り付けていた冷たい鎖を、音を立てて砕いた。
ぶかぶかだった制服が、彼女の成長した身体に再び馴染んでいく。
短かった髪がしなやかに伸び、怯えていた少女の顔は、苦しみの果てに自分を見つけ出した、現在の和翠の姿へと戻っていった。
「優也くん……」
和翠の瞳に、確かな光が宿る。
真っ白だった世界が、急激に色彩を取り戻し、優也の手の温もりが現実の熱を持って伝わってきた。
◆
現実の病室。
絶望が支配し、誰もが言葉を失っていたその時だった。
優也が必死に握りしめていた、和翠の白く冷たくなっていた指先が、ぴくりと微かに跳ねた。
「……え?」
最初に気づいたのは、彼女の手を離さなかった優也だった。
続いて、その小さな動きは、確かな力を持って優也の指を握り返した。
「先輩……? 和翠先輩!」
優也の声に弾かれたように、モニターの水平だった線が、一度、二度と、大きく波打ち始める。
「心拍再開! 自己心拍、戻りました!」
看護師の叫び声が響く中、和翠の閉ざされていた瞼が、震えながらゆっくりと持ち上がる。
「……おかえり、和翠先輩」
優也が涙を流しながら微笑むと、酸素マスクの下で和翠の唇が微かに動き、確かな「生」の温もりが病室に満ちていった。
to be continued.




