25
精神世界の風景が、一年前のあの日を境に一変する。
モノクロだった和翠の記憶に、鮮やかな色彩が、痛々しいほどの輝きを伴って流れ込んできた。
手術を終えた後の、あの奇跡のような感覚。
病室の窓を開けたとき、春の風が肺の奥深くまで入り込み、自分の体が羽のように軽いことに驚いた。
これまでは、階段を一歩登るだけで鉛のように重かった心臓が、今は正確に、力強く、瑞々しいリズムを刻んでいる。
「……息ができる。苦しく、ない」
和翠は自分の胸に手を当てた。
そこには、かつて自分を死の淵へと引きずり込もうとしていた、あの「欠陥」はもうどこにもなかった。
そして、その新しく手に入れた命で踏み出した世界で、優也と出会った。
男性という存在に怯え、震えていたはずの自分が、彼にだけは心を開けた。
彼が差し出す手のひらの温もりに、言いようのない懐かしさを感じていた。
初めて手を繋いだとき、初めて名前を呼ばれたとき。
和翠の胸は、生まれて初めて「喜び」という熱で満たされた。
けれど、精神世界で隣に立つ花桜梨の姿を見た今、その美しい色彩は、どす黒いインクをぶちまけたように濁っていく。
「……そう、だったんだね。優也くんの手を『温かい』と感じたのも、私が彼を好きになったのも、全部……」
和翠は震える指先で、自分の胸を指した。
「全部、この心臓が、優也くんを覚えていたからなんだ。私の臆病な心が彼を選んだんじゃなくて、私の中の『あなた』が、彼を求めていただけだったんだ……」
和翠は崩れ落ちるように白い床に膝をつき、嗚咽を漏らした。
これまで「自分の恋」だと思い込み、大切に抱えてきた感情が、他人の記憶のコピーに過ぎなかった。
その残酷な事実に、心がバラバラに砕けていく。
「私の人生は、生まれた時からずっと、誰かの犠牲を吸い取って成り立ってた」
母の削られた寿命。
一輝が諦めた子供らしい時間。
そして最後は、花桜梨という少女が生きるはずだった未来、あの人とともに歩むはずだった時間。
「私は、お母さんや一輝から時間を奪い、最後には花桜梨さんの人生を盗んで……その大切な心臓を苗床にして、あなたの恋まで横取りしていた。……私は、幸せになる資格なんてない。私は、ただの泥棒だったんだ……!」
和翠は、花桜梨の心臓が脈打つ自分の胸を、自らを罰するように何度も、何度も拳で叩いた。
ドクン、ドクンと響くその力強い音が、今は自分を責め立てる断罪の鐘のように聞こえる。
「もう十分だよ。十分に生きた。何も持っていなかった私に、神様がくれた最後の一年。優也くんと笑って過ごしたあの日々は、私には身に余るほど贅沢すぎたの」
涙が床に滴り、和翠の輪郭を曖昧にしていく。
「……目覚めるのが怖いの。目覚めて、優也くんの顔を見て……そこに私じゃない『あなた』を必死に映し出している彼を見つけるのが、何よりも恐ろしい。彼に、死んだ恋人の器として抱かれるなんて、そんなの……そんなの、耐えられない」
和翠の悲痛な叫びが、音のない世界に木霊する。
「花桜梨さん、お願い。この心臓を返させて。私を、元の私に戻して。……これ以上、誰かの『器』として、誰かの負担になりたくない! 私は、私として消えたいの……!」
その拒絶は、生きる意志の完全な放棄だった。
現実世界の病室に、不規則に乱れる心電図の音が響き渡る。
ピッ、ピッ、ピピピッ、ピッ……。
その音は、和翠の精神の揺らぎをそのまま映し出すように、激しく、そして脆く、壊れそうなリズムを刻んでいた。
「和翠姉さん! しっかりしろ、姉さん! 目を覚ましてくれよ!」
一輝がベッドにすがりつき、泣きながら和翠の肩を激しく揺さぶる。
モニターの波形は狂ったように上下し、優也はその異常な動きに、心臓が握りつぶされるような戦慄を感じた。
「和翠先輩……和翠先輩! 聞こえてるんだろ!」
優也は、和翠の冷たくなっていく手を両手で包み込み、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「心臓が誰のものかなんて、もうどうでもいい! 花桜梨じゃない、俺は、俺たちの過ごしたあの一年を、今の先輩を信じてるんだ! お願いだ、戻ってきてくれ!」
二人の必死な呼びかけが、重苦しい病室の空気を震わせる。
だが、その叫びも精神世界の深淵に沈む和翠には届かない。
彼女のなかで、最後の一本だった命の糸が、静かに断ち切られた。
激しく乱れていたモニターの音が、一瞬、ふっと途切れる。 そして、次の瞬間。
残酷なまでに真っ直ぐな一本の線が、画面を横切っていった。
――ピーーーーーーー。
無機質な、終わりを告げる異音が病室を支配した。
「……嘘だろ……。姉さん? 嘘だろッ!」
一輝の絶叫が壁を叩く。
優也は和翠の手を握ったまま、力が抜けたように膝をついた。
その瞳からは、言葉にならない絶望が溢れ出している。
その音を聞いた瞬間、桜はその場に崩れ落ちた。
自分の放った言葉が、先輩の命を、そして大好きだった姉の「生きた証」をも、同時に殺してしまった。
「……私が……私が、お姉ちゃんを……先輩を……」
震える唇からは、後悔の言葉すら形にならない。
桜雅と花梨は、変わり果てた娘と、動かなくなった和翠の姿に、互いを支え合うように強く抱き寄せ合った。
溢れ出す涙は止まらず、ただ、取り返しのつかない現実の重みに耐えることしかできなかった。
死を告げる電子音が、鼓膜を突き刺すような異音となって響き続けるなか、病室のドアが勢いよく開け放たれた。
「優也! 和翠先輩!」
駆け込んできたのは、息を切らした久志と唯だった。
二人の目には、真っ直ぐな線を描くモニターと、静止した時間のなかに立ち尽くす仲間たちの姿が映し出された。
久志のポケットのなかで、狂ったように回っていた懐中時計が、心電図の停止と同時にパチンと音を立てて止まった。
世界から、音が消えた。
to be continued.




