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Separate Memory 〜美しい地獄で生きる。その為に世界を見捨てた。〜  作者: 水瀬輝夜
-歪の産声-

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精神世界の風景が、一年前のあの日を境に一変する。

モノクロだった和翠の記憶に、鮮やかな色彩が、痛々しいほどの輝きを伴って流れ込んできた。


手術を終えた後の、あの奇跡のような感覚。

病室の窓を開けたとき、春の風が肺の奥深くまで入り込み、自分の体が羽のように軽いことに驚いた。

これまでは、階段を一歩登るだけで鉛のように重かった心臓が、今は正確に、力強く、瑞々しいリズムを刻んでいる。


「……息ができる。苦しく、ない」


和翠は自分の胸に手を当てた。

そこには、かつて自分を死の淵へと引きずり込もうとしていた、あの「欠陥」はもうどこにもなかった。

そして、その新しく手に入れた命で踏み出した世界で、優也と出会った。

男性という存在に怯え、震えていたはずの自分が、彼にだけは心を開けた。

彼が差し出す手のひらの温もりに、言いようのない懐かしさを感じていた。

初めて手を繋いだとき、初めて名前を呼ばれたとき。

和翠の胸は、生まれて初めて「喜び」という熱で満たされた。

けれど、精神世界で隣に立つ花桜梨の姿を見た今、その美しい色彩は、どす黒いインクをぶちまけたように濁っていく。


「……そう、だったんだね。優也くんの手を『温かい』と感じたのも、私が彼を好きになったのも、全部……」


和翠は震える指先で、自分の胸を指した。


「全部、この心臓が、優也くんを覚えていたからなんだ。私の臆病な心が彼を選んだんじゃなくて、私の中の『あなた』が、彼を求めていただけだったんだ……」


和翠は崩れ落ちるように白い床に膝をつき、嗚咽を漏らした。

これまで「自分の恋」だと思い込み、大切に抱えてきた感情が、他人の記憶のコピーに過ぎなかった。

その残酷な事実に、心がバラバラに砕けていく。


「私の人生は、生まれた時からずっと、誰かの犠牲を吸い取って成り立ってた」


母の削られた寿命。

一輝が諦めた子供らしい時間。

そして最後は、花桜梨という少女が生きるはずだった未来、あの人とともに歩むはずだった時間。


「私は、お母さんや一輝から時間を奪い、最後には花桜梨さんの人生を盗んで……その大切な心臓を苗床にして、あなたの恋まで横取りしていた。……私は、幸せになる資格なんてない。私は、ただの泥棒だったんだ……!」


和翠は、花桜梨の心臓が脈打つ自分の胸を、自らを罰するように何度も、何度も拳で叩いた。

ドクン、ドクンと響くその力強い音が、今は自分を責め立てる断罪の鐘のように聞こえる。


「もう十分だよ。十分に生きた。何も持っていなかった私に、神様がくれた最後の一年。優也くんと笑って過ごしたあの日々は、私には身に余るほど贅沢すぎたの」


涙が床に滴り、和翠の輪郭を曖昧にしていく。


「……目覚めるのが怖いの。目覚めて、優也くんの顔を見て……そこに私じゃない『あなた』を必死に映し出している彼を見つけるのが、何よりも恐ろしい。彼に、死んだ恋人の器として抱かれるなんて、そんなの……そんなの、耐えられない」


和翠の悲痛な叫びが、音のない世界に木霊する。


「花桜梨さん、お願い。この心臓を返させて。私を、元の私に戻して。……これ以上、誰かの『器』として、誰かの負担になりたくない! 私は、私として消えたいの……!」


その拒絶は、生きる意志の完全な放棄だった。

現実世界の病室に、不規則に乱れる心電図の音が響き渡る。


ピッ、ピッ、ピピピッ、ピッ……。


その音は、和翠の精神の揺らぎをそのまま映し出すように、激しく、そして脆く、壊れそうなリズムを刻んでいた。


「和翠姉さん! しっかりしろ、姉さん! 目を覚ましてくれよ!」


一輝がベッドにすがりつき、泣きながら和翠の肩を激しく揺さぶる。

モニターの波形は狂ったように上下し、優也はその異常な動きに、心臓が握りつぶされるような戦慄を感じた。


「和翠先輩……和翠先輩! 聞こえてるんだろ!」


優也は、和翠の冷たくなっていく手を両手で包み込み、喉が裂けんばかりに叫んだ。


「心臓が誰のものかなんて、もうどうでもいい! 花桜梨じゃない、俺は、俺たちの過ごしたあの一年を、今の先輩を信じてるんだ! お願いだ、戻ってきてくれ!」


二人の必死な呼びかけが、重苦しい病室の空気を震わせる。

だが、その叫びも精神世界の深淵に沈む和翠には届かない。

彼女のなかで、最後の一本だった命の糸が、静かに断ち切られた。

激しく乱れていたモニターの音が、一瞬、ふっと途切れる。 そして、次の瞬間。

残酷なまでに真っ直ぐな一本の線が、画面を横切っていった。


――ピーーーーーーー。


無機質な、終わりを告げる異音が病室を支配した。


「……嘘だろ……。姉さん? 嘘だろッ!」


一輝の絶叫が壁を叩く。

優也は和翠の手を握ったまま、力が抜けたように膝をついた。

その瞳からは、言葉にならない絶望が溢れ出している。

その音を聞いた瞬間、桜はその場に崩れ落ちた。

自分の放った言葉が、先輩の命を、そして大好きだった姉の「生きた証」をも、同時に殺してしまった。


「……私が……私が、お姉ちゃんを……先輩を……」


震える唇からは、後悔の言葉すら形にならない。

桜雅と花梨は、変わり果てた娘と、動かなくなった和翠の姿に、互いを支え合うように強く抱き寄せ合った。

溢れ出す涙は止まらず、ただ、取り返しのつかない現実の重みに耐えることしかできなかった。

死を告げる電子音が、鼓膜を突き刺すような異音となって響き続けるなか、病室のドアが勢いよく開け放たれた。


「優也! 和翠先輩!」


駆け込んできたのは、息を切らした久志と唯だった。

二人の目には、真っ直ぐな線を描くモニターと、静止した時間のなかに立ち尽くす仲間たちの姿が映し出された。

久志のポケットのなかで、狂ったように回っていた懐中時計が、心電図の停止と同時にパチンと音を立てて止まった。


世界から、音が消えた。


to be continued.

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