24
白一色の精神世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
次に和翠が目を開けた時、そこは冷たく湿った空気の漂う、古い木造アパートの廊下だった。
視界が不自然に低くなり、自分の手が小さく、指先が白くひび割れていることに気づく。
それは、和翠が心の奥底に封じ込め、最も消し去りたいと願っていた、幼い日の記憶の再構築だった。
◆
薄暗い廊下の隅で、和翠は小さく丸まり、震える膝を抱えていた。
薄い壁の向こう側から、空気を切り裂くような鋭い怒鳴り声が響いてくる。
それは、かつて憧れていたはずの父親の声だった。
「うるさい! 誰のおかげで生活できてると思ってるんだ! このガキの病院代にいくらかかってるか分かってんのか!」
ガシャン、と陶器が砕け散る乾いた音。
続いて、呼吸を忘れたような静寂のあと、押し殺したような母の啜り泣きが聞こえてきた。
和翠は両手で耳を強く塞いだけれど、父の言葉は容赦なく幼い心に毒のように染み込んでいった。
父が他の女性のもとへ通っていること、そして、その理由を「病気の子供がいる家庭の息苦しさ」のせいにしていることを、和翠は子供ながらに痛いほど察していた。
(……お父さん、どうして。どうして私やお母さんじゃなくて、違う女の人のところへ行くの? 私が病気だから、私たちが邪魔になったの?)
信頼していた唯一の男性という存在が、自分たちを「お荷物」として捨て、母の心を土足で踏みにじっていく。
その裏切りを知ったあの日から、和翠にとって男性は、いつか自分を捨て、心を無残に壊していく恐怖の対象へと変わった。
激しい動悸が始まる。
生まれつき欠陥のあった小さな心臓は、逃げ場のない家庭内の暴力的な空気に晒されるたび、悲鳴を上げるように不規則なリズムを刻み、彼女の命を少しずつ、着実に蝕んでいった。
場面がカチッと切り替わった。
離婚後の静かな夜へと移る。
台所のわずかな明かりの下で、母が家計簿を前に肩を落として座っていた。
一日中働き詰め、帰宅してからも深夜まで内職をこなす母の背中は、記憶の中よりもずっと小さく、骨ばって痩せ細っている。
「和翠、起きてたの?」
母は無理に口角を上げて笑顔を作ったけれど、その瞳は隠しきれないほど赤く腫れていた。
和翠を抱き寄せた母の体からは、湿布のツンとした匂いと、工場の油の匂いが混ざり合って漂ってきた。
「和翠、ごめんね。お母さんに甲斐がないから……もっといい病院に入れてあげられなくて。もっと早く、手術を受けさせてあげられたらよかったのに」
母が流す温かい涙が、和翠のパジャマの肩を濡らす。
謝らなければならないのは、私の方なのに。
和翠は、母の涙を見るたびに、自分の鼓動のひとつひとつが母の寿命を削り、母が享受すべきだった幸せを吸い取って動いているような、おぞましい感覚に陥った。
(私は、生きてるだけでお母さんを苦しめてる。私の存在そのものが、お母さんの人生に対する罪なんだ……)
そして、記憶の針は病院の白い待合室へと飛ぶ。
消毒液の匂いが鼻をつくその場所で、幼い弟の一輝が、体に対して大きすぎるプラスチックの椅子に座っていた。
一輝は、友達が校庭で夕暮れまでサッカーをしている時間も、お気に入りのアニメを見ている時間も、ずっとこの無機質な場所にいた。
姉の体調が悪化するたび、彼は文句ひとつ言わず、薄暗い待合室で静かに宿題を広げ、一人で時間を潰している。
時折、顔を上げて病室のドアを見つめるその瞳には、子供らしい無邪気さではなく、姉を失うことへの、言葉にできない怯えが混じっていた。
ある日の夕方、一輝が和翠のベッドサイドに、何かを隠すようにやってきた。
「姉ちゃん、これ。学校の帰り道で見つけたんだ。すごく綺麗な石だったから、姉ちゃんにあげるよ。お守りにして」
差し出された小さな、少し汚れた手のひらには、雨上がりの光を反射して光る、ただの河原の石が乗っていた。
けれど、それが一輝にとっての精一杯の、病院の外の世界からの贈り物であることを、和翠は胸が締め付けられるほど分かっていた。
一輝の指先は、寒空の下で探したせいか、赤くかじかんでいた。
自分を喜ばせようと、冷たい地面を這いつくばって探したその姿を想像して、和翠の心臓は物理的な痛みとなって疼いた。
(……ごめんね、一輝。お母さん、本当にごめんなさい)
和翠はその石を、壊れ物を扱うように強く握りしめ、心の中で何度も、何度も繰り返した。
(私が……私が病気じゃなければ。私なんて生まれてこなければ、二人はもっと笑って、もっと自由で、光に満ちた人生を送れたはずなのに。私の命は、二人から時間と未来を強引に奪って成り立っている、ただの重荷なんだ)
和翠の嗚咽が、精神世界の静寂を激しく揺らす。
自分の過去が、誰かの犠牲の上に築かれた砂の城であったことを突きつけられ、彼女はもはや、現実に戻るための気力を完全に失いかけていた。
「……ねえ、花桜梨さん。こんな私が、あなたの愛まで奪っていいはずがないよ」
和翠は、白い床に膝をついたまま、隣に静かに佇む花桜梨を見上げた。
その瞳は、自らの存在をこの世から抹消したいという、深い自己嫌悪と拒絶の色に染まっていた。
to be continued.




