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病室の電子音が、遠く、水底で鳴る鐘のように響いている。
和翠の意識は、肉体の重みを脱ぎ捨て、白一色の境界線へと沈み込んでいった。
そこには、二人の少女が立っていた。
一人は、雪のように白い肌をした病弱な和翠。
もう一人は、陽だまりのような暖かさを纏い、ひまわりのように笑う花桜梨。
二人の間には、ドクン、ドクンと、重く、確かな鼓動が一つだけ浮いている。
その鼓動が脈打つたび、和翠の脳裏に、自分のものではないはずの「記憶」が泥流のように流れ込んできた。
視界が不自然に低くなります。
さっきまで自分の足で踏みしめていたはずの地面が、今は頬のすぐそばにある。
冷たく、硬いアスファルトの感触。
そのざらついた表面に、自分の体温がじわじわと奪われていくのがわかりました。
鼻を突くのは、重苦しい鉄の匂い。
そして、摩擦で焼けたゴムの、鼻の奥を刺すような刺激臭。
耳の奥では、遠く、あるいは近くで、誰かが悲鳴のような叫び声を上げていました。
「大丈夫か!」
「救急車を!」
「誰か、意識はあるか!」
……けれど、その喧騒はまるで厚い水層を通したかのように、ぼやけて、頼りなく響いています。
(あ……空が、すごく綺麗)
見上げた先には、吸い込まれそうなほどに真っ青な、春の空が広がっていました。
雲ひとつない、どこまでも透明な青。
その視界の端に、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらが見えました。
つい数分前まで、自分もこの花びらの中を歩いていたはずでした。 あの人と、手を繋いで。
「……ゆう……や…くん……」
唇を動かそうとしても、自分の口がどこにあるのかさえ、もう定かではなかった。
喉の奥が熱く、せり上がってくる血の味が、生の意味を奪っていく。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
ただ、胸の奥に灯っていた光が、少しずつ、けれど確実に小さくなっていくことへの、言いようのない切なさと申し訳なさだけが、和翠の心を満たしていく。
(ごめんね、優也くん。……また明日ねって、約束したのに)
指先に残っていた、あの人の手のひらの熱。
耳に残っていた、あの人の笑い声。
それらが、体温の低下とともに遠ざかっていく。
死ぬことよりも、あの人を一人にしてしまうことが、何よりも悲しくて、胸が張り裂けそうでした。
(私のこと……忘れないでなんて、言えないよ。でも……でもね)
その時、花桜梨の意識が、和翠の魂を強く揺さぶった。
それは、絶望を塗りつぶすほどの、あまりにも純粋で強烈な「意志」だった。
(私のこの鼓動を……誰かにあげて)
どろりとした闇が視界を覆い尽くそうとするなかで、花桜梨は、自分の中に残された最後の「生」を、未来へ放り投げようとしていた。
(私の見られなかった明日を、誰かに見てほしい。私の愛した世界を、誰かに繋いでほしい。……誰かのなかで、もう一度だけ、優也くんに「ありがとう」って言わせて……)
その瞬間。
花桜梨の胸の奥で、カチリ、と何かの鍵が外れる音がしました。
肉体という檻から解き放たれた「心臓」が、目も眩むような光の粒子へと変わり、時空を超えて、一年前の和翠の胸へと雪崩れ込んでいきました。
「……っ……ぁあああ!!」
精神世界のなかで、和翠は自分の胸を強く掻きむしる。
受け取ったのは、単なる筋肉の塊ではない。
花桜梨が最期に抱いた、優也への狂おしいほどの愛着。
「生きたい」という願いよりも、「愛する人のそばにいたい」という執着。
そのあまりにも重すぎる「祈り」が、和翠の身体の芯までを貫き、魂を焼き焦がしていく。
(痛い……重いよ……花桜梨さん……!)
掌に伝わる、ドクン、ドクンという力強い鼓動。
それは、他人の人生を背負わされたという、逃れられない刻印の音。
和翠の目からは、自分のものなのか、それとも花桜梨のものなのか分からない涙が、止めどなく溢れ出していた。
to be continued.




