01
入学式から一ヶ月。
新しい制服の硬さが取れ始めた五月の昼下がり。
幼馴染の唯は友人と街へ繰り出し、新しい友人の久志は慣れないアルバイトに精を出している。
一人残された高橋優也には、帰るべき場所も、没頭すべき娯楽もなかった。
だから、彼は「巡回」をしていた。
放課後の校舎。
誰もいない教室。
静まり返った特別棟。
散歩と呼ぶにはあまりに事務的で、目的があるにしてはあまりに空虚なその歩みは、まるで自分の人生から抜け落ちた「何か」を必死に探し回る守衛のようでもあった。
最上階。
重い鉄の扉を押し開け、屋上に出る。
そこには先客がいた。
塔屋を背にし、春の終わりの風に長い髪を靡かせ、ただじっと空を見上げている女子生徒。 優也はその静謐な空気を壊すことを恐れ、音もなく踵を返そうとした。
「一年生……かな?」
透き通るような声が、背中に届く。
彼女は空を仰いだまま、視線だけを優也に向けた。
「……はい。邪魔をして、すみません」
反射的に謝罪が口をついて出る。
一年前の事故以来、優也の心には常に「自分がここにいてはいけないのではないか」という漠然とした罪悪感が張り付いていた。
「別に謝る必要はないわ。ただ、なんとなく空を眺めていただけだから。私は二年の、木原和翠」
「木原、先輩……。僕は、高橋優也です」
名乗った瞬間、和翠の瞳がわずかに細められた。彼女はゆっくりと歩み寄り、優也の全身を検分するように見つめる。
「高橋君ね。……先輩として、一つ言わせてもらってもいいかしら」
「……なんでしょう」
「格好いいと思ってやっているのでしょうけど、着崩しはダメよ。服装の乱れは、心の乱れ。……そうでしょう?」
和翠の指先が、優也の出されたシャツの裾を軽く示した。
優也は促されるまま、無言でシャツをズボンに入れ、緩んでいたネクタイを締め直す。
まるで、乱れた自分の人生を無理やり整えられているような、奇妙な感覚だった。
「うん、その方がいいわ。……それで、貴方はここで何をしているの?」
「特別な理由はありません。暇つぶしに、校内を歩いていただけです」
和翠は少し意外そうに首を傾げた。
「今の男の子は、もっと……ゲームとか、そういうものに夢中になるのかと思っていたけれど。アプリ、だったかしら? 私の弟もスマホばかり見ているから」
「中学の頃の友人はそうでしたけど、僕は……そういう気分になれなくて」
優也の答えに、和翠は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「珍しいわね。……実は私も、スマホは苦手なの。本当はケータイ__折り畳み式のやつが良かったのだけれど、もう生産していないみたいだから、泣く泣くこれを使っている感じ」
「スマホの方が便利ですよ。メールだって顔文字が使えますし」
「メールって、なんだか悲しくならない?」
和翠の言葉が、風を切るように鋭く響いた。
「文字だけじゃ、その時の想いまで伝わらない気がするの。……言葉は、もっと『体温』に近いところにあるべきだと思うから」
優也は言葉に詰まった。彼女の言う「想い」や「体温」という単語が、自分の記憶の空白をチリチリと刺激する。
「……すいません、まともなことが言えなくて」
「いいえ。……だけど、貴方のことを少し知ることができたのだから、それはそれでいい収穫だわ」
「収穫、ですか?」
「高橋君。貴方、毎日ここに来ているでしょう?」
優也の背筋に、冷たいものが走った。
「……気づいて、いたんですか」
「ここからだと学校を一望できるの。最初は、物珍しい新入生が散策しているだけだと思っていたけれど……一週間、二週間。貴方は毎日、同じルートを、まるで『何かを確認する』みたいに巡回していた」
和翠は一歩、距離を詰める。 彼女から、微かに「夢」で嗅いだあの花の匂いがした。
「だから気になって、今日は話しかけたのよ」
「……先輩こそ、毎日ここで何を。空を見てるだけですか?」
「貴方と一緒よ。ただの暇つぶし。……ふふ、似た者同士ね」
和翠がクスリと笑った瞬間。
優也の左胸が、ドクン、と大きく跳ねた。
穏やかな昼下がりの屋上。
けれど優也の右手の指先は、今朝の夢の残像をなぞるように、冷たく震え始めていた。
to be continued.




