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__トクン。トクン。トクン。
静寂の底で、その音だけが響いていた。
あまりに穏やかで、規則正しい、平熱の鼓動。 まるで、深い眠りの中にある赤子の寝息のように、それは世界に安らぎを強いていた。
けれど。
__ドクン。ドクン。ドクン。
不意に、別の音が重なる。
それは、何かに怯え、何かを激しく拒絶するような、ひどく歪なリズムだった。
穏やかな音を浸食し、かき乱し、不協和音を撒き散らす。
やがて、狂ったメトロノームのような音が、すべての静寂を塗りつぶした瞬間。
――ブツンッ。
糸が切れたように、すべての音が消えた。
◆
「…………ここは」
気がつくと、高橋優也は『白』の中に立っていた。
視界のすべてを埋め尽くす、圧倒的な純白。
空から降っているのは雪ではない。
はらはらと、音もなく舞い落ちる正体不明の白い花弁だ。
季節外れの、けれどこの世のものとは思えないほど美しい、結晶のような花びら。
「……夢、なのかな」
優也の声は、どこか遠くから響いているような錯覚を伴っていた。
目の前を横切る一片の花弁を掴もうと、彼は右手を伸ばした。
指先が、その柔らかな白に触れる。
その、刹那だった。
『__……けて。おねがい、にげ……__』
耳元で、誰かが囁いた。
ひどく掠れた、消え入りそうな少女の声。
けれど、優也の記憶のどこを探しても、その声の主は見当たらない。
直後、世界は『赤』に反転した。
「……っ!? あ、あああああぁぁぁっ!!」
悲鳴が喉を裂く。
視界が、真っ赤に染まっていた。
空から降るのは花弁ではない。
生温かい、鉄の匂いのする飛沫だ。
足元の純白は、どろりとした粘り気のある赤黒い海へと変わっている。
掌に、重い感触があった。
見下ろした右面は、手首まで真っ赤に汚れていた。
指先から滴り落ちる液体が、地面の血溜まりに弾けて、不吉な波紋を作る。
「……なんだ、これ。……誰だ、今の……?」
記憶はない。
自分に恋人がいた記憶も、誰かとここにいた記憶も、一切合切が抜け落ちている。
なのに、確信だけがあった。
この『赤』は、自分が奪ったものだ。
自分が、この右手で、名前も知らない『誰か』の__。
__ドクン! ドクン! ドクン!!
鼓動が爆発する。
耳の奥を直接殴りつけるような激しい振動。
苦しくて、肺が焼けるようで、優也は自分の左胸を、血塗られた右手で強く掴んだ。
◆
「__っ、はぁ、はぁ、はぁっ……!」
目を開けると、そこは自分の部屋だった。
窓から差し込む春の陽光。雀のさえずり。
さっきまでの地獄のような赤はどこにもない。
優也は、震える右手を見つめた。
そこには血なんて一滴もついていない。
爪の間まで清潔な、どこにでもある高校生の少年の手だ。
「……また、あの夢だ」
一年前のあの日から、優也の記憶には『空白』がある。
事故だったと、周囲は言う。
運搬中の資材が崩れ、通りかかった優也が巻き込まれた不運なアクシデント。
幸いにも命に別条はなく、ただ「事故の瞬間」の記憶だけが失われたのだと、幼馴染の唯も、優しく彼を慰めた。
けれど、何かがおかしい。
ただの事故の記憶を失っただけで、これほどまでに胸が抉られるような喪失感を抱くものだろうか。
右手が覚えている、あの温かい液体の感触は何なのか。
優也は、左胸に手を当てた。
トクン、トクン、と。
そこには、一年前と変わらない、自分自身の穏やかな鼓動が刻まれている。
……そう、信じていた。
to be continued.




