103-07
数日後。
二人は、かつての「地元」の土を踏んでいた。
しかし、駅の改札を抜けた瞬間に、二人は足がすくむような感覚に陥った。
そこに広がる光景は、記憶の中の色彩とは無残なほどに乖離していたからだ。
「……ここ、ハイランドだった場所だよね」
翼が力なく指差した先には、かつての活気ある商店街の面影はどこにもなかった。
自分たちが泥にまみれて働き、海神やノエルと「青い夢」を語り合ったあの場所には、今やどこにでもある無機質なチェーンのコーヒーショップが建っている。
「……海神、怒ってるかな。あんなに俺たちのこと、気にかけてくれてたのに。……挨拶も、謝罪も、結局一度もできないまま。本当に、ひどいことしたよな、俺たち」
翼の言葉には、六十年抱え続けてきた濁った後悔が滲んでいた。
かつての喧騒や、鉄板の焦げる匂い、仲間たちの笑い声……。
それらすべてを塗りつぶすように、あたりには無機質な排気ガスの匂いと、行き交う他人の乾いた足音だけが漂っていた。
二人は重い足取りで、思い出の場所を辿った。
かつて自分たちの心の拠り所であった巫女ノ丘の社は、管理する者がいなくなったのか、社殿は傾き、朱色の鳥居は無残に剥げ落ちていた。
石段を覆う苔と雑草が、時の残酷な重みを物語っている。
「……ねえ、翼くん。あの日、ここで神様に誓ったこと、覚えてる? ……あんなの、嘘だった。私たち、自分のことしか考えてなかった。優くんや和翠さんを……取り残して」
未来が崩れかけた社を見上げ、絞り出すように呟く。
自分たちが手に入れた九州での長い幸福は、この地に残された者たちの犠牲の上に咲いた花だったのではないか。
その思いが、今さら遅すぎる棘となって胸を刺す。
高校の校庭が見える場所まで歩を進めても、景色は残酷なままだった。
フェンス越しに眺めるその場所は、改装を繰り返したのか、自分たちが通った頃の面影はない。
「……俺たちは、本当にここにいたのか?アイツらの時間を奪ってまで、生き延びた価値が、俺たちにはあったのか?」
翼の声は風に震え、答えを求めるように空を彷徨った。
街は、二人を忘れたのではない。
二人を最初からいなかったものとして、ただ静かに、そして猛烈なスピードで、新陳代謝を繰り返していた。
自分たちが死んだことにしたあの日から、世界は一度も二人を待ってなどいなかった。
かつての仲間たちが過ごしたはずの数十年という時間を、自分たちは「沈黙」という名のナイフで切り裂いてきたのだ。
その喪失感と、取り返しのつかない罪悪感は、どんな激しい怒りよりも重く、二人の老いた心に深く、深く突き刺さった。
そして、かつての実家があった場所へと足を向けた。
翼の家があったはずの場所には、もう、彼を叱り、彼を案じてくれたあの人の面影はどこにもない。
そこには新築の二階建てが建ち、見知らぬ家族の生活の匂いが漂っていた。
ベランダには、午後の陽光を浴びて、誰のものかもわからない色とりどりの洗濯物が幸せそうに揺れている。
翼は、その光景をただ呆然と見上げた。
かつて自分がこの地を去る際、親に見せたあの絶望に満ちた背中。
それを追いかけてくれたかもしれない誰かの手。
しかし、その一切は、真新しい外壁と、知らない子供の泣き声にかき消されていた。
「……ここにはもう、俺の居場所どころか、俺の『罪』さえ残っていないんだな」
翼の乾いた声が、穏やかな住宅街に溶けていく。
「ねえ、翼くん。あそこの窓……私の部屋から見えていた景色と、全然違う」
「ああ。街も、人も、僕たちの記憶を塗りつぶして進んでる。僕たちが九州で必死に新しい名前を刻んでいた間に、ここは僕たちの名前を消すことに必死だったみたいだ」
続いて訪れた未来の家は、さらに残酷だった。
かつての庭の木々も、彼女が泣きながら駆け抜けた玄関も、すべては更地を通り越し、アスファルトで固められた無機質なコインパーキングへと姿を変えていた。
かつて二人の人生が、愛と憎しみで激しくぶつかり合っていた場所を、今や見知らぬ他人の車がタイヤで踏みしめ、数分単位の料金で切り売りされている。
「……誰も、いないね」
未来が、そのアスファルトの冷たさを確かめるように呟いた。
「ああ。……俺たちが消えたあの日、この街も俺たちを消したんだ。俺たちが死んだことにした瞬間、この街にとっての僕たちは、もう処理済みのデータに過ぎなかったんだよ」
翼の言葉には、喉の奥を焼くような苦みが混じっていた。
「虚しいね。もっと、こう……街全体が沈んでいるような気がしてた。私たちがいないせいで、誰かの時計が止まったままなんだって、心のどこかで信じたかったのかもしれない」
「傲慢だったよ。俺たちは、自分たちがこの世界にとっての『重大な欠落』だと自惚れていたんだ。でも現実は……ただのコインパーキング。俺たちの人生の重みなんて、一晩の駐車料金にも満たない」
謝りたいと思っていたわけではない。
自分たちの選択は正しいと、六十年間信じ続けてきたはずだった。
だが、心のどこかで、自分たちの不在が、誰かの人生に癒えない傷として残り、誰かが自分たちのことを一生呪い続けていることを、残酷な「誇り」のように期待していたのかもしれない。
自分たちが生きた証は、誰かの苦痛の中にこそ刻まれているはずだと。
しかし、現実は、ただ静かに、無情に風化していた。
二人が捨てた世界は、二人を必要とすることなく、二人の不在に涙することもなく、ただ勝手に、効率的に、更新され続けていた。
「……優くんに、謝らなきゃいけないことが、山ほどあったのに」
未来の目から、一筋の涙が溢れた。
その涙は、誰に看取られることもなく、アスファルトの隙間に吸い込まれて消えた。
「和翠さんだって……あんなに私たちを信じてくれていたのに。私たちは、みんなの人生から自分たちだけを綺麗に切り取って、そのあとの『空白』がどうなろうと、一度も顧みなかった。……これが、私たちの犯した一番大きな罪だったんだね。みんなを『いないもの』として扱った報いが、今のこの景色なんだ」
「……あいつらがどんな顔で、どんな絶望で、僕たちの死体がない海を見つめていたか。それを想像することさえ、俺たちは幸せに負けて、放棄してきたんだな」
「逃げ切ったつもりだった。誰にも見つからない遠い場所へ。でも、本当に逃げていたのは、自分たちがつけた『傷』からだったんだね」
二人の後悔は、今や巨大な重圧となってその背にのしかかっていた。
あの日、心中を偽装して逃げたとき、自分たちは「自由」を手に入れたと思っていた。
だが、六十年後に戻ってきた故郷で思い知らされたのは、「自分たちが誰の記憶にも、誰の憎しみにさえも残っていない」という、究極の絶望だった。
「……ごめん。……本当に、ごめん……」
翼が震える声で絞り出したその謝罪は、コーヒーショップの喧騒や、走り去る車のエンジン音にかき消され、誰の耳に届くこともない。
彼らの祈りは、届くべき相手をとうの昔に失い、冷たいアスファルトの上を虚しく彷徨うだけ。
「翼くん……私たちの声、どこにも響かないね」
「ああ。沈黙を選んだのは、僕たちだ。……だから、この沈黙に押し潰されて終わるのが、お似合いなんだよ」
断罪すらされない。ただ、徹底的な無関心が、二人を静かに埋め立てていった。




