102-06
九州の南端に、その場所だけ時が止まったような静寂が訪れていた。
かつて数えきれないほどの笑い声と泣き声で溢れていた『児童養護施設・未来の翼』の庭は、今や綺麗に整えられ、主たちがその役割を終えたことを静かに告げている。
生い茂る木々の隙間から差し込む陽光はどこまでも優しく、黄金色の粒子となって、六十年という歳月の中でここを駆け抜けた、数多の命たちの記憶を揺り起こしていた。
風が吹き抜けるたび、世代を超えた子供たちの残響が、幾重にも重なって耳をかすめる。
「ねえパパ、見て! お花、唯ママにあげるの!」 「こらこら、泥んこのまま上がっちゃダメよ。……ふふ、ありがとう、綺麗ね」
それは、よちよち歩きの幼子たちが、初めて「無償の愛」を知った無邪気な声。
テラスのベンチからゆっくりと立ち上がった二人の声は、その残響を慈しむように穏やかだった。
「……準備はいいかい、未来」
「ええ、翼くん。……行きましょう」
さらに風が強まり、少し背の伸びた少年たちの、青く尖った声が次々と重なる。
「……父さん、俺、高校行ったら野球部に入るよ!」
「ああ、応援してるぞ。翼を広げることを、恐れるな」
「母さん、私……将来はここで働きたい。二人みたいに、誰かを守れる人になりたいの」
思春期の揺らぎ、反抗、そしてそれ以上に強い信頼。
この場所を「家」と呼んで旅立っていった、何十という「息子」や「娘」たちの顔が、瞼の裏に鮮やかに浮かび上がる。
七十代になった二人の顔には、そんな季節を幾度も乗り越えてきた深い刻印があった。
北瀬翼の短髪には白雪の色が混じり、赤松未来の柔らかな微笑みには、慈しんできた歳月の重みが湛えられている。
そして最後に、門扉を抜けて自立していく若者たちの、震えながらも晴れやかな声が空に溶けていった。
「父さん、母さん。……本当の親じゃないけど、二人は私の本当の『パパとママ』です。今まで、ありがとうございました!」
「元気でね。……ここが、いつまでもあなたの故郷よ。疲れたら、いつでも羽を休めに戻っておいで」
六十年の月日。
送り出してきた子供たちは、今ではそれぞれの場所で、自分たちだけの新しい「翼」を広げ、力強く羽ばたいている。
彼らにとって、翼と未来は「聖人の如き父母」であり、この施設は「救いの聖域」だった。
かつて自分たちが、自らの手で血を流すようにして切り捨てた「血縁」という地獄。
その対極にある、血の繋がりを超えた深い愛情に包まれた「嘘偽りのない家族」の肖像を、二人は六十年かけて、この丘の上で完璧に、一人の綻びもなく作り上げたのだ。
その完璧なまでの、そして世界で最も美しい「虚像」を生涯守り通したまま、二人は最後の旅に出ることにした。
誰に告げるでもなく、書き置き一つ残さず。
ただ二人、寄り添うように。
「……これだけの子供たちを、僕たちは『偽り』の翼で飛ばしてきたんだね」
「ええ。……でも、あの子たちが飛んだ空は本物よ。だから、もういいの。……行きましょう、翼くん」
行き先は、北。
六十年前にすべてを捨て去り、一度も振り返ることのなかった、あの雪の降る断崖のある地へ。
自分たちが「死んだ」ことにした場所へ。
今、人生の円環を閉じるために、老いた二つの翼は再び静かに動き出した。




