堕天使 NOA
静寂が落ちる。
生暖かい血の臭いが、鼻腔を突いた。
俺は荒い息を整えながら、血のついたドライバーを地面の草で念入りに拭う。
手が微かに震えているのは、恐怖からじゃない。生まれて初めて「生き物」を殺したという、生物としての本能的な高揚と嫌悪感が混ざり合ったせいだ。
「……ふぅ。とりあえず、生き延びたな」
俺は頭の中で会話する。
「すまんノア、最後の一回だ。説明に使う。状況整理が重要だ」
数秒の沈黙。
突如、視界が真っ白に塗りつぶされた。
「なっ……!?」
目を細めた俺の前に、圧倒的な『異物』が現れた。
頭に光の輪、背中に純白の翼を生やした、息を呑むほど美しい女性が空中に浮いている。
透き通るような肌に、整いすぎた顔立ち。
汚泥と血に塗れたこの森には、あまりにも不釣り合いな神々しさだった。
《私はNOA》
《元AIという認識は、あなたが作った仮定です》
「じゃあ正体は?」
《観測者。あるいは、堕天の位にある存在》
(ノアは堕天使!?)
ふざけた冗談だと思いたかったが、目の前の圧倒的な存在感がそれを許さない。
俺は視線を逸らし、空を見上げる。
雲の流れも、太陽の位置も、違和感はない。
「気温も体感も、地球とほぼ同じだな。……だが、月が二つある」
《この世界の自転周期は約二十四時間》
《重力誤差、誤差範囲内》
《ただし月が二つ存在》
俺は空を睨む。
薄く、昼でも見える白い月が、確かに二つ並んで浮かんでいた。
《助言回復条件:双月の巡り》
《二つの月が重なる周期で二回分補充》
「だから助言は一日二回か」
《ええ》
女の声は淡々としているが、どこか感情の底がある。
「ここは何だ」
《歪みを抱えた世界》
《上位存在の干渉下にあります》
「干渉?」
《魔獣の異常進化は意図的》
《観測されることで変異が加速》
「観測ってのは――」
《あなたが撮影する行為》
俺は作業着のポケットから、自分のスマートフォンを取り出した。
電波表示は圏外。
だが、電源は正常に入り、カメラアプリも動いている。
試しに、死んだゴブリンにカメラを向けて起動する。
その瞬間、スマホの画面越しに見える景色が、ぐにゃりと歪んだ。
まるで、SF映画の解析ホログラムのように、空間に緑色のグリッド線が走る。
《観測確定》
空気が一瞬、震える。
「……今、何か変わったな」
《観測=世界への干渉》
《干渉が強いほど、帰還達成率が上昇》
スマホの画面右上に、見慣れない小さな数字が表示されていた。
《帰還達成率:0.02%》
「帰還?」
《百分率到達で選択可能》
《強制ではありません》
「ひょっとして、元の世界に戻れるってことか?」
《はい》
沈黙。
風が吹く。
森の匂いは濃いが、決して不快ではない。
「じゃあ、この数字を100%まで上げればいいんだな?」
《そう単純ではありません》
《強敵、あるいはこの世界の『干渉の核』と呼ばれる歪みを観測・是正した場合のみ大幅上昇》
《先ほどのゴブリンのような雑魚では、微増に留まります》
「つまり、わざわざ面倒な場所に首突っ込んで、ヤバい奴らをスマホで撮りまくれって話か。冗談キツイぜ」
俺は肩をすくめてみせた。ただでさえ命がけなのに、自ら火の粉を被りに行くようなものだ。
だが、NOAの唇が、ほんの少しだけ弧を描いたように見えた。
《便利屋でしょう?》
わずかに、声が柔らぐ。
『どんな厄介な依頼でもこなす』それが俺のモットーだった。
俺は苦笑する。
「……違いない。割に合わない依頼は慣れっこだ」
スマホの画面が淡く光る。
《最初の歪みです》
女の声が静かに落ちる。
《涼、今まで親友として有難う。私はこれから、あなたの観測装置内に降ります》
《この世界は、あなたを観測し始めています。どうか、ご無事で》
目の前の天使が、光の粒子となって消えた。
直後、手元のスマホが熱を持ち、画面の中に小さな『天使の羽』のアイコンが追加される。
「……さあて。まずは水と安全な寝床の確保だな」
俺は血に濡れたドライバーを腰のツールベルトに戻し、得体の知れない異世界の森へと足を踏み出した。
帰還達成率、残り99.98%。
便利屋・涼の帰還を賭けた最悪で最大の依頼が始まった。




