第九話 マイスター
「なぁに。下着売り場を経験済みのキミには、水着売り場なんて今更ハードル低すぎて楽勝ものだろう?」
「……ユウお兄ちゃん?」
ちがう、ちがうんだ。おれは無実だ。
だからマユ、その蔑んだ目はやめなさい。俺の心がうっかり死んだらどうする。
「俺は先輩にハメられたんだよ! だいたい俺が自ら好き好んで下着屋なんかに入るわけがないじゃないか!」
「おやおやぁ。えろえろユウ君は下着には全く興味が無いとおっしゃる?」
「いや、全く無いかと言われたら無いわけではないけども……あとえろえろはやめてください。マユもいるんですよ」
ほら見なさい。横でマユが苦虫を噛み潰したような顔してますよ。
「あるんじゃん。いいんだよ、無理しなくても。わたしはそんなことでキミを嫌ったりなんかしないからね」
そう言ってニコッと笑う先輩。その笑顔は卑怯なり。
「先輩……ってどっかのチョロインじゃないんだから誤魔化されたりはしませんよ。俺はハメられたんです。何度でも言うぞ」
しかし、俺君のスルー。そうそう毎回いつもいつも惑わされてばかりではいられない。
「ちっ。キミはたまに強情だよね」
「ここで認めたら俺は変態マイスターの称号を得てしまう。それは許容できない」
俺はキリッとした顔で言い切る。断固たる決意を持ってうんぬんかんぬん。
「えっ? キミ、まだ持ってないとでも思ってたの? 変態マイスター」
「えっ? 俺、そんな変態行為とかまだしたことないですよね? え?」
「まだ、なのかい……。語るに落ちるとはこのことだね」
フッと勝ち誇る先輩。ハードボイルドならここで煙草の煙でも吐き出すとこだな。
「はっ!? 謀ったな、サヤカ!」
「キミは良い彼氏だったが、キミのエロさがいけないのだよ」
俺が坊やだとでも言うつもりなのか。まぁあの頃はまだ坊やだったかもしれないが。
「あーもう、全然話進まない! で、ユウお兄ちゃんは結局何なの? どうしてそうなったの?」
いやぁ、脱線ばかりですみません。
多分レールメンテナンスする人達みんな、この暑さでストライキ起こしてるんだと思うんですよ。
「おお、聞いてくれるかマユ。俺の味方はやはりお前だけだよ」
「わかったから、話してみて。はやく」
両手を広げて感激のポーズを取るも、はいはいと流される。
おかしいな。実家にいた頃はもうちょっとこう、こんな感じじゃなかったはずなんだが。
「それがな、俺と先輩でモールに買い物に行った時の話なんだ。先輩が角の服屋に入ってな。俺もそれについて店に入ったわけだ」
「うん、ここまで何も変な話はないね」
「そしたら先輩が反対側の出口から出て、隣の店舗に入ってったんだよ。いいものなくて移動するのかと思って俺もひょいっと続いたら、視界が白とピンクで埋め尽くされてフリーズした」
「うん、なんでこれから入る店を確認しないのかな? ユウお兄ちゃんの目はエロいものを見るためだけに付いてるのかな?」
あれっ。なんかマユさんの視線が冷たくていらっしゃる?
でも違うんだ。問題はここからなんだ。
「違うんだ。そこで俺は逃げようとしたんだ。入って三秒ぐらいであ、これ絶対やばいやつだって復帰したんだ。でも、逃げられなかったんだ」
「なんで?」
「先輩が俺の手首をガッチリと握りこんで引っ張って……。騒げばどうなるかわかるよね? って……」
「完全に脅迫だそれ!?」
「人聞き悪いなぁ。お願いだよお願い。あんなとこで男性に騒がれたら、気まずいなんてもんじゃないからね」
そう思うなら、そもそも下着屋に男性を引きずり込まないでいただきたい。
「うん。話はわかったよ。予想以上の展開だったけど、とにかくわかったよ」
「そうか、わかってくれるか。流石マユ。頼りになるぜ」
「それで結局その後どうしたの? もちろんすぐ店を出たんだよね?」
「それが……。俺の好みで一揃い選ぶまで解放しないって……」
店の奥の奥まで……。あんなにイヤだって言ったのに……。
「ちなみにピンクに赤いラインの入った清楚風下着でした。ユウ君もこれでなかなかレベルが高いよね」
「ちょっと? それバラす必要あった? プライバシーの侵害ですよ!」
「どっちかっていうと、身につけてる私の方のプライバシーだと思うけど」
「えっ、今つけてるんです?」
「見てみるかい?」
「天下の往来でなんて話してるんですか! いい加減にしてください! 訴えますよ!」
流石の俺達も公権力には無力なのだ。訴えられたら普通に負けてしまうのだ。
こういう時は素直に口をつぐむに限る。私は貝になりたい。
「まぁまぁ、ユウ君も軽い出来心だったんだよ。そこまで責めないでやってくれないかい」
「いや主犯サヤカさんですよね。むしろユウお兄ちゃんはどう考えても被害者ですよね」
「最後にぱんつ見ようとしたところもかい?」
「二人とも有罪ですよね。懺悔が必要なら教会はあちらですよ」
見ればなんとも都合の良いことに、道の先にこじんまりとした教会が建っている。
いや別にしないけど、懺悔。でも一度懺悔室自体は見てみたいとは思う。
「この教会の辺りまで来たらもう猫の尻尾はすぐそこだな。あとひと踏ん張りだぞ、マユ」
「うん。結構雰囲気のいい喫茶店なんだよね? ちょっと楽しみ」
雰囲気。うん、雰囲気はまぁ、いいと思うよ。雰囲気はね。
「ときに先輩。今日はどっちだと思います?」
俺は隣を歩く先輩の方に向き直って、人差し指を一本立てる。
「わたし旦那さんで」
「じゃあ俺は奥さんで」
ベットは成立した。報酬は一杯のおごりだ。
「? ユウお兄ちゃん、何の話?」
その様子をマユが不思議そうな目で見ている。
「うむ。今日はどっちが店に出てるかって当てっこだな。あの店は夫婦で経営してるんだが、二人揃って仕事してるってことがまずなくてな。どっちが店に出てるかこうやってギャンブルが成立するぐらい、統一性がない」
「そうなんだ。買い付け担当と店舗担当みたいなもの? あ、でも役割を固定しちゃうと入れ替えで店に立つのが難しくなっちゃうのかな」
うむ。あの二人はどっちも自分でできるな。
というかお互いに勝手に自分の好きな物を仕入れているというか。
「その通り。どっちか居れば店は開けられる。それでも空いてない時は両方にどうしても外せない用事ができた時だな」
「今までそんなことはあまりなかったけどね」
「ま、そういうわけで多分やってはいるだろうけど、何が飲めるかは着いてみるまでわからないというのが猫の尻尾という喫茶店だ。さあ、ワクワクしてきただろう?」
俺達の行く手には、猫の後ろ姿と揺れる尻尾が描かれた置き看板が見えていた。




