第十話 常連
「ま、そういうわけで多分やってはいるだろうけど、何が飲めるかは着いてみるまでわからないというのが猫の尻尾という喫茶店だ。さあ、ワクワクしてきただろう?」
俺達の行く手には、猫の後ろ姿と揺れる尻尾が描かれた置き看板が見えていた。
「何が飲めるかわからない? 喫茶店なのに決まったメニューがないの?」
「いいや、メニューはちゃんとあるぞ。ただ、その時々でどっちか半分が注文できなくなるだけで」
「?? なんなのそれ?」
「ま、すぐにわかるよ。詳しいことは入ってからのお楽しみだな」
そう言って店の扉を大きく開けると、からんからんと涼しげな音が鳴り響いた。
「あ、いらっしゃい。テーブル席、空いてるよ」
カウンターの中で作業していた店主のおじさんが、俺達を見て窓際のテーブル席を勧めてくれる。
最近はずっと二人でカウンターだったので、なんか新鮮な気分だ。
「こんにちはー。今日はコーヒーの日なんですね」
先輩は店内に立ち込めるコーヒーの香りを楽しみながら、テーブル席のソファに座る。
俺達もそれに合わせて向かい合う席へ腰を下ろした。
「いやぁ。今日はじゃんけんに負けてね。おかげで囲碁会すっぽかしちゃったよ」
この夫婦はいろんな方法で店番を押し付け合……ではなく、交代しあっているらしいが、そのうちの一つがじゃんけんなのだろう。
他のゲームとかでも店番決めてそうだな。夫婦円満に楽しそうで何より。
「やあ、いらっしゃい。そっちの子は初顔かな? うちはコーヒーも紅茶もおかげさまで高評いただいてるんで、ぜひご贔屓に」
俺達が席に座ると、店主のおじさんがお冷とおしぼりとメニューを持ってきてくれる。
いわゆるウェルカムセットというやつである。
「じゃあ、今日は紅茶にしちゃおっかな? さっきミルクティー飲んだから、今度はレモンティなんかもいいかも。ニルギリ辺りがいいのかな?」
「はは、参ったな。サヤカちゃん、説明終わる前にそれは勘弁してよ」
先輩がイタズラっぽい表情でおじさんをからかうと、おじさんもまんざらでもなさそうな顔で苦笑する。
常連連中が初見客向けによくやる、定番のネタである。
「さて、この店はちょっと変わった仕組みでやらせてもらっててね。コーヒーは私、紅茶は妻の担当になってるんだ」
マユは黙って頷いて、話を聞いている。
「それで大変申し訳無い話なんだけど、私と妻はそれぞれがそれぞれの担当しか詳しくないんだ。私で言えば紅茶、妻で言えばコーヒー。これらはどうしてもって場合はお出しするけど、正直素人に毛が生えた程度だと思ってもらった方が早いかもしれない」
「と言っても、流石にティーバッグじゃないから、大丈夫だよ」
さっきからかったお詫びに、先輩の常連客としての立場からのフォロー。
「はは。一応、作法は妻から習ってるから頑張るよ。でも定番の一種類しか出せないのは、それは先にご了承いただきたいところかな」
単独の初見客や、なんでもいいから紅茶をお願いって言われた時用の緊急避難だから、そこまで力を入れていないのだろう。
おじさんの紅茶が特別美味しいという話を聞いたことは、俺もない。
「というわけで、本日のご注文はできれはこのページの左半分からいただければと思います。他のメニューは共通だから、そちらもよろしくね」
最後に注文が決まったら呼んで欲しいと言い残して、おじさんはカウンターに戻っていった。
「どうだマユ。変わった喫茶店だろう?」
「うーん、そうだね。私もそんなに個人の喫茶店って入ったことないけど、確かに変わってるとは思うよ」
「わたしもねー。最初はユウ君との待ち合わせの場所として、適当な喫茶店を探してただけだったんだよね。そしたら今日は紅茶しか出せないって言われちゃって」
コーヒーの置いてない喫茶店もないわけではないんだろうけど、今日は出せないって断るのもそれはそれで解せない。
「なんでですか? って聞いたらさっきの話を奥さんから聞かされてさ。なにここ面白ってすぐにユウ君にメール打ったわけ」
「面白い喫茶店見つけたから今すぐ集合って言われて、最初はなんのこっちゃだったよ。図書館で調べ物してたの切り上げて急行してみて納得」
仕組みを説明した後すぐに応援を呼ばれて、流石に奥さんも笑ってたぐらいだ。
おかげで店側から覚えられるのも早かった。特に先輩が。
「それで出てきた紅茶が普通なら、単なるがっかり喫茶店で終わったんだけどね」
香りが凄く良くて、それは今まで飲んだことのない紅茶だった。
もっとも俺達だって、普段はティーバッグの紅茶しか飲んでないわけだけど。
「後日また行ってみて、二回ぐらい紅茶の日が続いてね。そうなると今度はどんなコーヒー出すんだろうって気になっちゃって」
こうなったらコーヒー飲むまで通うぞ、というところでまんまと常連になってしまったのである。
ひょっとしてこれ、この店の思う壺だったりするのだろうか。
「それで、念願のコーヒーはどうだったの?」
「それは今から確かめたらいいさ」
俺はマユにメニューを差し出して、そう言った。
***
「それにしてもこのテーブル席も懐かしいですね。テーブル席に座ったのって、本当に最初の頃ぐらいじゃないかな?」
俺達がまだ友達には近すぎて、知り合いでは遠すぎる、なんとも微妙な距離感の頃の話だ。
「そうだねー。遂にコーヒーの日を引き当てた日から、カウンターに鞍替えしたからね」
「そうそう。先輩がドリップの様子を見たいって言い出して」
「だってさんざん焦らされたんだよ? どんなコーヒー出すのか気になるじゃない」
「だからってずっと覗きこんでるんだもんなぁ。おじさん凄くやりづらそうでしたよ」
それでもおじさんもそういう客には慣れてるようで、問題なく仕事してたみたいだけど。
「ドリップ作業って面白くて、見てて飽きなかったんだもの。キミだって見てたじゃない」
「ずっとは見てないですよずっとは。最初の数回だけです」
あとはずっと先輩を見てました。
「それにしてもユウお兄ちゃん、このたった三ヶ月間で随分と濃い生活をしてたみたいだね?」
ふと会話が途絶えた瞬間、マユがしみじみとした口調で窓の外を見た。
いつの間にか空に雲がかかってきている。梅雨特有のすぐに崩れる天気模様。一雨来るのかもしれない。
「うん? なんだ? 急に」
「だってこんな、今までの生活と全然違うじゃない。行きつけの喫茶店なんか作っちゃってさ」
マユはちらりと横目で店内を眺める。
「まぁなぁ。大学生にもなると環境がガラッと変わるから、戸惑うことも多かったんだぞ」
「ちょーっと目を離した隙に彼女なんか作っちゃってさ。たった三ヶ月だよ? なんでそんなに手が早いの?」
マユの唇を突き出したふてくされ顔。あんまり見たことのないパターンだな。
「こらこらこら。俺が節操なしの女たらしみたいな言い方やめなさい。俺は決してそんな軽薄なことはしてないぞ」
「だってそうじゃない。ずっと今まで彼女の一人も居なかったのに。こんな大学デビューみたいなことして」
「いやいやいや。俺は別に大学デビューとかそんなことしてないから。むしろされた方だから」
「んん? どういうこと? ユウお兄ちゃんが種馬のようにサヤカさんに襲いかかったんじゃないの?」
「マユの中での俺って一体どうなってんの? こわい。そんなわけないだろ。だいたいこの店だって俺にとっては先輩からこく」
「それにしてもだよ! わたし達はご覧のとおりユウ君が大学に入ってから付き合いだしたわけだけどさ。マユちゃんも、ユウ君とはかなり長い付き合いだったんだよね?」
マユに最後まで言い切る前に突然声を張り上げた先輩に驚いて、俺は正面に座る先輩に視線を戻す。
先輩は勢い余ってお冷のコップを倒してしまったのか、あたふたしながらこぼした水をお手拭きで拭いていた。
「それで、マユちゃんは今までずっとユウ君をかんし……じゃなかった見守ってたんだよね? なんだか、悪い事しちゃったかなっ」
先輩は口調こそからかい混じりのものだったが、その目はマユの目をじっと見ていた。




