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第三十話 ハグ

「……ユウお兄ちゃんは、私にはぎゅってしてくれないの?」


 じっと見上げてくるマユの目に、天井の照明が写り込んでいる。


「そりゃしないでしょう。先輩は俺の彼女だからそういうのできるけども、マユはそうじゃないでしょ。不味いでしょ」


 マユの前髪は間近で見るとさらさらつやつやとしていて、見ているとついつい弄りたくなってしまって困る。


 それがほっぺたなんかに当たると、もうくすぐったくて仕方がない。


「本人がいいって言ってるのに、なにが不味いの? サヤカさんが要らないって言ってるのを私が拾っただけだよ」


 またマユさんはそんなことを。そういうの屁理屈っていうんですよ。よくないですねー。


 しかしそういうことを耳元で言われると、もうなんかそれでいいかなって気になってきてしまうから怖いね。


「本人がいくら良いって言っても実際にはアウト、なんてことはよくあるからなぁ。ままならない世の中だよ」


 それにしても、このぽわぽわな物体はとてもやわらかくてあたたかいな。ついでにいい匂いまでするぞ。


 と、誰かに背後から肩をぽんぽんと叩かれる。


「確かにそうだよね。実際にアウトだよね。キミ、言ってることとやってることが真逆だから」


 はっ!?


「……マユさん? なんでマユさんの後頭部が俺の顔のすぐ横にあるんですかね?」


「うん? それはユウお兄ちゃんが、私のことギュッとしてくれたからでしょ? えへへ。私、これ好きかも」


 そう言って更に強くぎゅーっとしてくるマユさん。ああ、やわらかいなぁ。


「確かにぎゅっとする方もされる方も、なんか安心できるからな。ハグはいいものだよー」


 俺もお返しに軽くぎゅっとしてあげる。軽くね。あくまでそっと。


 どうせもうここまでしてしまったのだ。今更ジタバタしても仕方ない。後は流れに身を任せるが最良。


「まぁそれには同意するけど、あんまり無闇やたらにやるものでもないと、わたしは思うなぁ」


 不思議な事に先輩は呆れたように見てくるだけで、特に他に何か言ってくることもない。


 あれぇ? 俺は心のなかで首を傾げながら、いつものハグのクセでマユの背中を撫でかけて慌ててやめる。あぶねぇ。


「いやいや、なにをおっしゃいますか、先輩よ。西洋では家族間どころか、友人知人とでもハグしてますよ」


 ほら再会した時とか、よくやってるイメージあるでしょ。オゥーって言いながらギュッて。アレよアレ。


 それを考えたら妹とハグするぐらいふつーですよふつー。ねっ? ほらどこもおかしくない。


「あー、やってるよね。何ならキスまでしてるよ。ほっぺにチュって」


「軽く触れるぐらいのやつね。向こうの人も流石に恋人同士でもなけりゃ、口ではしないみたいですね。と言っても現物を目の前で見たことはないんで、ホントのとこは知りませんけど」


 ドラマとかテレビの中を参考にすると、現実と大きく乖離してしまうことはよくある。気をつけないとね。


「それって……こ、こんな感じ、かな?」


 と、なにやら意を決したような声とともに、耳付近の頬に何かが触れる感触。


 え、これって、まさか……。


「……マユさん?」


 俺が感触から想像したことが事実なら、マユさんの顔は今すげーことになっていると思われる。


 さっきから感じているほっぺたの温度からも、それが読み取れる。


「う、うん……。私、ちょっともう限界かも……」


 なんなら薄着越しに感じるマユさんの鼓動が凄いことになっておられる。小動物なのかな? そんなに鼓動早いと早死しちゃうから!


 ほら、心臓って生涯鼓動数が決まってるってよくいうじゃないですか。


「さて、それじゃもうそろそろいいよね? はいはいおわりおわり。離れる離れる」


 先輩は俺の首根っこを掴むと、べりっと引き剥がしてぽいっと後ろの床に投げ捨てた。


 ちょっと? おしり痛いんですけど? 扱い乱暴じゃないですかね!


「マユちゃんもお疲れ様。お風呂、沸いてるからお先にどうぞ。わたしはこの後、ユウ君とちょっと色々あるから」


「う、うん。じゃあお風呂お先にいただきます」


 そう言うとマユは荷物から素早く着替えを取り出すと、逃げるように脱衣所へ向かっていった。


 あっ、痛いですって。別に姿追ってたとかそういうことじゃないから、首はやめて首は。ぐぎって言ったよ今。


「さて、これでキミをこの手に取り戻したわけだけど。この後どうなるかは、もちろんわかってるよね?」


「……ええ。覚悟はもう出来ていますとも。さあ、煮るなり焼くなりするがいい。もう好きにすればいいよ」


 姿勢は自然と正座スタイル。現実逃避はもう散々終わらせた後だ。もうどうにでもなーれ。


「そうだね。では、わたしの好きにさせてもらうとしようかな?」


 次の瞬間、俺の後頭部は床に激しく衝突した。





「……あの、お風呂、上がったんだけど……」


 どのぐらい時間が経ったのかわからないが、気づくと頭の先の方でマユの声がした。


「ああ、マユちゃん。お帰り。じゃあ次はわたしかな。お先ー」


 先輩は廊下の隅から恐る恐る顔を出しているマユに一言声をかけると、テーブルの上に置いたままになっていた乾いた着替えを持って、脱衣所へ向かった。


「……ユウ兄ちゃん、大丈夫なの?」


 寝巻き代わりの薄い上下のマユが、恐る恐る近寄ってくる気配を感じる。


「あー、まぁ。それなりには。とりあえずレンチンでおしぼり作ってくれる? タオルで」


 色んな所がベタベタで、流石に風呂に入る前に拭きとっておきたい。


「わかった。とりあえず、はい。使いかけで悪いけど、ちょっと濡れてるから」


 マユは手にしていたのか首にかけていたのか知らないが、どうやら使いかけのタオルを俺の顔の上に置いて、キッチンへ向かったようだ。


 俺はそれをありがたく使わせてもらうことにして、ひとまず顔をタオルで拭う。もうべちょべちょだよ。


 これ、化粧が残ってる状態の女性相手にやったらすんごく怒られるやつじゃないかな。


 今日の先輩はいつになく激しかったが、とりあえずDV的なものはなくて俺は一安心。


 今デートDVとか酷いらしいじゃない? 人事じゃなくなるのは困る。大変困る。


 それにしても不思議なのは、先ほどの先輩の態度である。


 さっきまでならイノシシのような突進でもって、俺とマユのハグを無理矢理にでも解消させようとするぐらいはしたはずなのに。


 さっきは呆れたようにとは言え、マユの気が済むまで手も出さなかった。


 唐突に態度が変わりすぎで、不自然過ぎる。


 これは何かあると考えた俺は、マユ相手に一芝居打ってみることにした。


「なあマユよ。いくら二人の間で取り決めてあるからって、もうちょっと加減というものをだな。毎回これじゃ俺の身がもたないぞ」


「う、うん。ごめんね。ちょっとテンパっちゃって。ホントはあそこまでするつもりはなかったんだよ」


 回るレンジの前で背中を向けているマユの表情は見て取れないが、ものすごいもじもじしてる様子から今どんな感じなのかは容易に想像がつく。


 それにしても否定は無しで、出てくるのは謝罪と来たか。うーん。


「にしても先輩がよく許したな。あんな約束しちゃって、良かったのか?」


「うん。お互いにメリットのあることだから。それに、言い出したのはサヤカさんの方からだよ?」


「ああ、そういやそうだったな。で、マユはそれに乗っかったと」


 これは何らかの密約がかわされたのは確定ですかねー。


 問題はどんな内容なのかってことなんだが、これに関してはどうやって口を割らせようかな。


「さっきはお互いにちょっとイライラしてたからね。ユウ兄ちゃんだって、ギスギスした空気は嫌いでしょ?」


「それはそうだ。そんなものが好きなのは変態だけだ。そして俺は変態ではない」


 マイスターでもなんでもない。俺は普通の一般人なのだ。なんどでも言おう。


「だからあの提案は渡りに船というか……。誰も不幸にならないからね」


 ここに約一名わけがわからないまま被害に遭ってる人が居るんですが、それはなかったことになっちゃったんですかね?


「それは俺にとってもいいことなんだろうか? どうもそうは思えないんだが」


「ふふ。ユウ兄ちゃんにはちょっと大変かもね? これからの共有計画、頑張ってね? 彼氏さん」

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