エピローグ
朝の霧が完全に晴れ渡った東名高速上り線。
走行車線の真ん中を、日本の道路交通法と物理法則を根底から否定する異様な隊列が疾走していた。
ビィィィィィィィィィッッ!! ペケペケペケペケッッ!!
先頭を走るのは、前カゴに泥付きの長ネギを突き刺し、後部キャリアに新米10kgを積載した一条美代子のホンダ・スーパーDio(排気量50cc)。
そのDioの頑丈なスチールキャリアには、工事現場から失敬してきた極太の黄色と黒のトラロープがガチガチに本結びで括り付けられている。
ロープは後方へ15メートル伸び、一条走の昭和旧車のフロントフォークへ。
さらにその走の単車のスイングアームからもう一本のロープが伸び、川手敬太の2ストローク軽量レプリカのステムへと繋がっていた。
正真正銘、原付による二輪車二台の数珠繋ぎ牽引。
しかも、巡航速度はきっちり時速100km。
「ぎゃああああああああっ!! し、死ぬ! 風圧邪眼が開眼するゥッ!!」
最後尾を引っ張られる敬太は、ヘルメットのシールド越しに白目を剥いていた。
エンジンは切られているため、聞こえてくるのはゴロゴロと鳴るチェーンの悲鳴と、時速100kmの強烈な突風の音だけ。
前の走のマシンが小石を踏んでわずかにブレるたび、トラロープがバインッ!とゴムのようにしなり、敬太の首と手首に凄まじい衝撃荷重(G)を叩き込んでくる。
「走ォォッ! テメエの母ちゃんアクセル戻す気配ゼロだぞ! ブレーキかけろ! ちょっとリア踏んで引っ張り返せよォッ!!」
「無理だよ敬太ァッ!!」
中間に挟まれた走が、風圧で頬の肉を真後ろへ激しく波打たせながら絶叫する。
「さっきちょっとフットブレーキ踏んだら、母ちゃんがバックミラー越しにネギを抜く構え見せてきたんだよ! 『引っ張り返すんじゃないよガソリン代が勿体ない!』って口パクで言われたんだよォッ!!」
「あのオバハン、バックミラーで後続車のブレーキランプ監視してんのかよ化け物かァッ!!」
並走する長距離大型トラックの運転手が、信じられないものを見る目で窓から身を乗り出し、何度も目をこすっていた。
原付のオバちゃんが、二台の改造単車をタコ糸のように引き連れてトラックを追い越していくのだ。後続の車列は完全に車間距離を300メートル空け、誰も近寄ろうとしない。
その地獄の牽引劇のすぐ横を、蓮司、シンジ、鮫島、そしてチビが等速で走っていた。
「……美しい」
黒崎蓮司がツナギの腕を組み、長い黒髪を風になびかせながら呟いた。
「Dioの駆動系、クラッチシューが限界まで焼き付いて直結状態になっている。遠心クラッチではなく完全なダイレクトドライブ……おばさん、無意識にマシンの限界を超えたトルク伝達を引き出しているぞ」
「分析して感心してる場合かレン!!」
敬太が涙を流して叫ぶ。
「ロープ切れそうなんだよ! さっきからバチバチ繊維が悲鳴上げてんだよ!!」
「シンジくん、空気抵抗の計算はどうなってる!?」
走がすがるように参謀を見る。
シンジは片手でメガネを押さえ、冷静にノートをめくった。
「現在、Dioを先頭としたスリップストリーム効果により、走くんの走行抵抗はマイナス42%、敬太くんに至ってはマイナス65%です。ガソリン消費量はゼロ。美代子さんの主婦としての経済的合理性判断は、流体力学的にも100点満点です」
「合理性で俺たちの命が天秤に乗ってんだろうがァッ!!」
その横を、チビ(小林蓮)の原付がスーッと滑らかに並びかけた。
チビは左手だけでハンドルを固定し、右手にはサービスエリアの自販機で買ったばかりの『アイスモナカ(バニラ)』を持っていた。
チビは時速100kmの風圧でモナカの皮がペリペリと剥がれそうになるのを絶妙な角度で防ぎながら、一口かじり、数珠繋ぎで引きずられる敬太に向かってボソリと言い放った。
「……耐えろ」
「お前は食うか寝るかしかしてねえだろチビ助ェェェッ!!」
午前10時。
町外れのガレージに、ようやく平穏――いや、完全なる敗北の静寂が訪れていた。
トタン屋根の下。
ビールケースの上に置かれたのは、美代子のスマートフォン。
画面には、某ネット銀行の入金通知がこれ見よがしに青白く光っていた。
『振込:ウラキリフリトウゲウンエイ(カ 1,000,000円』
「……100万」
蓮司がその画面を見つめ、膝から崩れ落ちた。
両手をコンクリートの床に突き、サラサラの長い前髪をボサボサに垂らしている。
「俺のスナップオン……。梨地仕上げのコンビネーションレンチセット……。漆黒の7段ロールキャブ……」
「レン、元気出して……」
走が泥だらけの顔で蓮司の肩をポンポンと叩く。
「元気が出るわけねえだろォォォッ!!」
蓮司がガバッと顔を上げ、般若のような形相で敬太の胸ぐらを掴み上げた。
「敬太テメエ!! なんでエントリーシートの振込口座に走の実家のゆうちょ口座を書いたんだコラァッ!!」
「痛い痛い! 首が締まるレン!!」
敬太がジタバタと足をバタつかせる。
「だって賞金用の口座番号なんて覚えてねえし、走んちの居間のカレンダーに『給食費引き落とし口座』のメモが貼ってあったから、それ書いときゃ確実だと思ったんだよ!!」
「確実にオカンの懐に直行しただろうがアホンダラァッ!!」
ガレージの奥の流し台。
美代子は鼻歌交じりに、泥付きの長ネギをジャブジャブと水洗いしていた。
手首には、先ほど銀行から下ろしてきたばかりの分厚い茶封筒。
「ふふふーん。これで家の外壁の塗り替えができるわねえ。あと走の追試用の家庭教師代と、敬太んちの壊れた雨どいの修理代も出してあげるからね」
「俺の工具代は……?」
蓮司が力ない声で尋ねる。
美代子はエプロンで手を拭くと、茶封筒からペラリと一枚の千円札を取り出し、蓮司のツナギの胸ポケットへスッと差し込んだ。
「はい、蓮司くん。いつもウチのバカ息子の面倒見てくれてありがとうね。これでホームセンター行って、一番いい500円のドライバーセット買ってきなさい」
「…………」
美形メカニックの瞳から、光が完全に消失した。
「あ、あの……美代子さん……」
鮫島が恐る恐る手を挙げる。
「副賞の……『最高級ハイオクガソリン1000リットル』はどうなったんでしょうか……?」
美代子はニッコリと満面の笑みを浮かべた。
「ああ、あれね! 近所のガソリンスタンドの店長に頼んで、全部灯油と交換してもらったわ! 今年の冬は暖房代気にせずファンヒーター全開でいけるわよ!!」
「「「ハイオク1000リッターが灯油になったァァァァァッ!!」」」
全員の絶叫がガレージのトタン屋根をビリビリと震わせた。
100万円の夢も、ハイオクの夢も、主婦の圧倒的な生活防衛本能の前に灰燼と帰したのだ。
夕暮れ時。
ガレージのシャッターの前で、走と敬太は並んで縁石に腰掛け、美代子から配られた1本60円のソーダアイスを齧っていた。
「……なあ、走」
敬太が青い舌をペロリと出しながら、遠い目をして呟いた。
「俺たち、何のために時速270キロで突っ込んで、サイドカーぶん投げて、ダンボールで空飛んだんだっけ?」
「さあ……?」
走は空を見上げ、あっけらかんと笑った。
「でもさ、母ちゃんに引っ張られてる時の時速100キロ、エンジン止まってたのにすっごい風圧だったね」
「お前、本当に脳のネジ全部落としてきたな」
二人の背後では、蓮司がホームセンターの千円のドライバーで虚しくキャブレターのネジを回し、シンジが「灯油の熱量計算」をノートに書き留め、チビがクーラーボックスの上で静かに夕陽を眺めていた。
タコメーターの針を折り、全国のスピード狂を震撼させた『RED ZONE』。
彼らが真の「最速」に辿り着く日は――おそらく、あの長ネギを積んだスーパーDioを追い抜かない限り、永遠にやってこない。




